1. シンポジアムT(関西支部発題)(吉田南4号館3階、4共30教室)

シンポジアムT(関西支部発題)(吉田南4号館3階、4共30教室)

関西支部発題シンポジウム

 

「アメリカ文学における幸福の追求とその行方」

 

                  司会・講師: 貴志 雅之(大阪大学)

                     講師: 新田 玲子(広島大学)

                         竹本 憲昭(奈良女子大学)

                         白川 恵子(同志社大学)

 

 トマス・ジェファソンがジョン・ロックの自然権「生命、自由、財産」を参照し、「財産」を「幸福の追求」に書き換えて、独立宣言書に不可侵の権利として「生命、自由、そして幸福の追求」を記したことはよく知られる。一方、「幸福の追求」の理念と共振する「アメリカン・ドリーム」の概念が、建国以来、あるいは建国以前から、現代に至るまでアメリカという国家とそこに生きる人々を突き動かす精神的原動力となってきた。本シンポジウムは、「アメリカン・ドリーム」と密接に関連し、その拠り所ともなる「幸福の追求」の理念・精神性がどのようにアメリカ文学で顕されているのかを時代を越えて検証し、過去から現在、未来に至るアメリカ文学の志向性を考えるものである。

 個人の幸福の追求が別の個人や社会、国家のものと相容れず、軋轢、衝突が生まれる。マイノリティとマジョリティの関係性に顕著なように、人種、民族、ジェンダー、宗教の点で、あるいは南部と北部、東部と西部という地域によって、特定の個人・集団の幸福が他者の不幸となり、ユートピアがディストピアとなることも珍しくない。アメリカ国家の覇権が他国およびアメリカ国内の他者の幸福を損なうものとなるのも常である。幸福の追求とそのあり方は、個人と個人、個人と社会、集団と集団など、他者との関係性において相対的なものである傾向が強く、それが時代を越えてアメリカ社会・文化の多様な出来事・事件・現象のなかに顕在化してきたように思われる。

 アメリカ文学は幸福(と不幸)のあり方をどう捉え、どう顕してきたのか。「幸福の追求」を巡る様々な作品が示す物語の色彩とベクトルは、アメリカを見る文学のまなざしを考える一つの視座を与えてくれるように思う。「アメリカ文学における幸福の追求とその行方」を、講師それぞれが選んだテクスト、コンテクストから検討し、論じ合うことで、アメリカを描き、表象し、予見するアメリカ文学の営為と可能性を改めて考える機会となれば幸いである。           

                           (文責 貴志雅之)

 

 

Nancy Randolphの幸福の追求――

歴史小説にみるJefferson周辺のthe Mansion of Un/happiness

 

白 川 恵 子

 

 「生命、自由、幸福追求の権利」を謳って植民地を独立させたJeffersonが、不可侵の生得権から公的に除外された混血奴隷情婦一族を、モンティチェロの私邸内部に隠蔽していたスキャンダルが暴露されてから、複数世代に及ぶ一族の込み入った人間関係について知られるところとなった。と同時に、この話題が、米文学の想像力生成に一役買ってきたのも事実である。

だが、ジェファソンがサリーとの関係を続けていた間に、彼の遠戚では、18世紀最大と称された別のスキャンダルが発覚し、裁判沙汰(1793)となっていたことを知るものはあまり多くないだろう。ヴァージニアの名家Randolph一族の義兄妹間(Richard RandolphNancy Randolph)の不義と嬰児殺害容疑は、「幸福の追求」の社会的発展モデルの中枢概念を担った地を舞台として発覚しただけでなく、米独立と建国史に貢献したジェファソンと並ぶ大立者が複数かかわったという意味においても、共和制期の個人による「幸福の追求」の一事例として考察するに値するのではないかと思われる。

誘惑/感傷小説のプロットに精通していた大衆にとって、この事件は、数年前に出版されたベストセラーThe Power of Sympathy(1789)を彷彿させた。しかしナンシーのその後の人生は、自死によって終わる悲劇のヒロインとは異なる。憲法作成・批准に貢献したフェデラリストの大物Gouverneur Morrisと結婚し、モーリザニアの女主人として、モリスの嫡子の母として、果敢に生きたのである。だからこそ、本件事件を扱った小説には、夭逝したリチャードではなく、ナンシーを主人公に据えた作品が目につく。大統領のスキャンダル同様、本件もまた文学的想像力を喚起して止まない。本発表では、事件概要とその歴史小説化について報告したい。その過程で、ジェファソンによって所与の権利と規定された幸福追求の概念が、ナンシーの人生/物語とどのように関連するのかについても考察したい。

 幸福とは、人の手によってコントロールできるものではなく、神によって与えられし運命であるとの決定論や、ひとえにストイックな公民道徳を是とする古典的幸福観とは一線を画し、その追求が所与の権利であると明確に規定された18世紀末にあって、公的な美徳と私的な幸福追求とは不可分に混ざり合う。幸福の追求という曖昧な概念は、キリスト教倫理の訓育装置として編み出されたボードゲーム(マンション・オブ・ハピネス)が本来的に内包する多義性をも想起させる。一族の幸福の理想は、糊塗と暴露によって“the mansion of un/happiness”に至る道をナンシーに与えたと言えるのではなかろうか。

 

Truman CapoteThe Grass Harpにおける記憶の中の幸福

 

 新 田 玲 子

 

 Truman Capoteの長編第二作で1951年に発表されたThe Grass Harpは、アラバマ州モンロービルでの幼少期に題材を取り、“A Christmas Memory”The Thanksgiving Visitorにも共通する、素朴ながら、心満ち足りた片田舎の穏やかな生活を回顧している。そのせいもあってか、Radical InnocenceにおいてIhab Hassanは、The Grass Harpを「昼のスタイル」に分類している。

 しかし一見明るい印象をもたらすCapoteの作品も、その根底には常に「夜」の要素を留めており、それはThe Grass Harpにも言えることである。実際、この作品がもたらす幸福は記憶の中にしか存在せず、幸福の温もりにも、今は失われてしまった儚さや切なさが伴う。

 アメリカにはアメリカン・ドリームを追う前向きな人物が多いなか、記憶という過去に幸福を見出すCapoteの姿勢は、ある意味、特異ではないだろうか。そこで本発題では、一見幸せな思い出が、記憶の中でしか存在できない原因を探ってみたい。

 その切り口として、まずCapoteが得意とする表象から、語り手の少年Collinが愛する老齢の従姉妹、Dollyの住まう部屋の“an outlandish pink”に着目し、Capoteが求める“home”の性質を定義する。そのうえで、Dollyたちが待避する「木の家」に表される“home”の限界と、表題ともなっている「草の竪琴」に籠められたCapoteの幸福感を分析する。

 これらの考察に基づき、Capote“home”や幸福の概念について、彼自身が育った家庭のありかたや、彼がゲイであったこと、また1950年代という時代の特徴など、個人的背景や時代的背景を絡めた提言を試みたい。  

 

Brautiganの戯れと幸福感

竹 本 憲 昭

 

Richard Brautigan は、1960年代のカウンター・カルチャーのなかで数多くの読者を獲得し、人気作家となったが、70年代に入って彼が発表した作品は、以前にくらべて精彩を欠き、作品の売れ行きとともに、作家としての評価も落ちていった。しかし、代表作Trout Fishing in Americaは、Brautiganの特徴が最もよく生かされている作品として、いまでも高く評価されている。

彼の特徴として従来たびたび指摘されているのは、物質文明が蔓延した現代社会における自然破壊を嘆く心情であり、彼は自然がまだ損なわれていない過去のアメリカに楽園を見出しているともいわれている。また何度も来日し、日本人女性と結婚したこともあるBrautiganは、禅や俳句などの東洋文化を学び、その視点から何らかの悟りを開いて、アメリカの物質文明を相対化していると見られることさえある。

 それではBrautiganにとっての幸福とは、森の中で暮らしたThoreauのように、物質文明から離れた自然の中での生活に見出されるのだろうか。たしかにBrautiganにはそのような側面もあるのだが、決してそれだけではない。彼にはそれと全く逆の、卑俗なものにも興味をもつ、好奇心旺盛な子どものような側面が認められる。Trout Fishing in America は長編小説とされてはいるが、断片的な部分から構成され、短編連作や短編集に近い。この作品を構成する多数の断片的なエピソードを束ねているのが、タイトルにもなっている “trout fishing in America” という言葉であり、この言葉は文字通りの「釣り」という行為のみならず、人物、場所、状況など、様々な意味を持たされている。こうした断片性や多義性は、多分にポストモダン的であるといえるが、同時に、移り気な飽きっぽい子どもの遊び心を連想させる。そしてTrout Fishing in America には自然破壊を嘆く悲観的な色合いとともに、子どもっぽい遊び心が満たされるときの幸福感が、にじみ出ているように思われる。この作品に彼のそのような幸福感がいかに表現されているか、検討してみたい。

 

 

タブーを犯した成功者――

The Goat, or Who Is Sylvia? における幸福の追求と破壊

 

                              貴 志 雅 之

 

 Edward Albee は劇作家の道を歩み始めた当初より、アメリカ人が抱くアメリカン・ドリームと「幸福の追求」願望の歪みを夫婦、家族の姿を通して描いてきた。養子にした子を物のように扱い、意に添わなければ廃棄する中年夫婦の姿に、大量消費文化のなかで本物の価値を見る目を失い、表面的な美しさと豊かさに幸福を追い求める現代人の精神的不毛性を映し出したThe American Dream (1961) 。一方、Who’s Afraid of Virginia Woolf? (1962)では、存在しない息子の幻想を唯一のかすがいに生きてきた夫婦が、息子の死を自ら宣告して幻想を砕きながら、現実世界を直視する恐怖に怯える。夫婦生活の幸せを息子の幻想なくして持ち得ない夫婦の問題が示された。それから40年、2002年度トニー賞受賞作The Goat, or Who Is Sylvia?は、獣姦というショッキングな問題を軸に一人の男の幸福の追求がもたらす「悲劇」を描いた問題作である。本発表では、アメリカン・ドリーム、禁忌行為、規範、暴力をキーワードに、The Goatに見られる「幸福の追求と破壊」について考える。

 幸せな家庭を持つ著名な建築家が山羊に恋して獣姦を犯す。それにより夫婦・家庭生活の破壊を招き、自身の名声と地位を危うくし、最後には妻に山羊を殺される。これがThe Goatの顛末である。発表では、獣姦という禁忌行為を社会的規範の侵犯、その行為者を異常者・変質者と見る社会通念を取り上げ、社会的経済的成功というアメリカン・ドリームの達成に「幸福の追求」のあり方を見いだす精神性・イデオロギーを考察していく。作品中、アメリカン・ドリームを実現したロール・モデルと言える主人公が自らの幸福追求の為に犯した禁忌行為によって、「幸福の追求」の社会的理想像を破壊する。一方、彼の動きを阻止すべく外在的力が作用する。この両者の関係性を中心にした議論で、ゲイの息子と主人公との疑似近親相姦的同性愛場面、夫の獣姦告白を受けた妻による山羊の惨殺が検討対象となる。

 最終的に、本作の副題「悲劇の定義に向けた覚書」(“Notes toward a definition of tragedy”)に示された現代の「悲劇」の意味とオールビーが本作の主題の一つに挙げた「寛容性の限界」を検討する。これにより、本作に見られる「幸福の追求と破壊」を21世紀アメリカの個人と社会が孕む一つの問題として一定の見解が出せればと思う。