1. 5.蘇る標的 ―― DeLillo文学の弾道

5.蘇る標的 ―― DeLillo文学の弾道

渡辺克昭 大阪外国語大学


JFK暗殺事件が、作家Don DeLilloの誕生に少なからず寄与したことはつとに知られるところであるが、White Noise (1985), Libra (1988), Mao II (1991), Underworld (1997), Body Artist (2001), Cosmopolis (2003)といった、彼の主要テクストには、何らかのかたちで“shooting”というテーマが骨太に貫通している。

Maria Mossとのインタヴューにおいて、DeLilloは、「アメリカ人の心のなかには、広大な風景のなかにたたずむ孤独な個人がいる。馬に乗っているにせよ、車を運転しているにせよ、いずれも銃を携えている。これこそアメリカの神話の本質的なイメージの一つだ」と述べている。この言葉に集約されるように、そもそも銃は、孤独なアメリカ人が茫漠たる荒野を征服するのに不可欠な、速度メディアと密接な共犯関係にあった。直線的に時空を超越し、自らの手を汚すことなく瞬時にして欲望を実現するこのlethalなテクノロジーこそ、Manifest Destinyを駆動するアメリカ的purenessの守護神だったのである。

だが、そのようにほとんど不可視にしてirrevocableな速度メディアとして銃の神話は、JFK暗殺事件に象徴されるように、映像メディアを巻き込みながら、アメリカの神話それ自体を究極的に標的とするとき、脆くも内側から自壊する。弾道さえも可視化しかねない映像が反復して暴き出すのは、死へと逢着する弾丸の向こうに亡霊のごとく蘇る標的の姿である。相同性を孕みつつも無限に乱反射し合う“shooting” (撃つ/写す)を通じて、死をもたらされたはずの標的が、妖しいアウラを放つシミュラークルと化し、無限に再生を繰り返すという悪夢がここに前景化される。

こうした視座に立ち、本発表では、DeLilloが「銃」にいかに多様かつ重層的な表象を担わせてきたのかをまず概観したうえで、アメリカという文脈において銃そのものに賦与されてきた即時的/即自的なメディア性が、彼の文学の特徴をなす銃と映像メディアの共振的な反復性や差延性といかなるアポリアを生成するかについて考察を加えてみたい。その作業を通じて、DeLilloが、内側から捻りを加えたアメリカの神話のスパイラル上に、「銃」をどのように再定位しているかが浮き彫りになれば幸いである。