1. 2.Clothes for a Summer Hotel 再考 ―― Williams流エクリチュール・フェミニヌ

2.Clothes for a Summer Hotel 再考 ―― Williams流エクリチュール・フェミニヌ

坂井 隆 大阪市立大学(院)


本発表では、Tennessee Williamsの最晩年の戯曲 Clothes for a Summer Hotel (1980)を、主題と形式両面においてそれと類似したHelene Cixousの戯曲Portrait de Dora (1976)と比較する。この比較を通してそのWilliamsの作品の表現形式が「エクリチュール・フェミニヌ」として潜在性を孕むこと、さらには一人の特権化された焦点人物を配さないことによってそのエクリチュールを演劇化することにCixousの戯曲以上に成功していることを証明する。  

F. Scott FitzgeraldとZelda夫妻を題材にしたClothes for a Summer Hotel は夫Scottの圧制のもとでかき消されたZeldaの「声」―作家・創作者としての声―を再生させると同時に戯曲内のScottが体現する家父長的性格(そして、それを支えるマチーズモ崇拝)を問題化する。このフェミニスト的主題はPortrait de Dora のそれと類似する。「エクリチュール・フェミニヌ」を演劇に応用したCixousはFreudとその患者Doraを題材にしてその戯曲を創作したわけだが、その作品ではFreudの強引な精神分析に抵抗するDoraの姿が呈示され、フロイト解釈に刷り込まれた家父長的、男権主義的性格が糾弾される。これは、男性優位者の圧制の下にかき消された女性の「声」を再生させると同時に家父長制的なものを問題化するという意味において、Clothes for a Summer Hotel の主題に通底するものといえる。また、技法に注目すると、両戯曲とも非直線的な劇構造をもち、複数のエピソードが時間軸を無視して流動する。Cixousは、女性の身体性を反映したエクリチュールを意識してこの技法を採用しているわけだが、そうするとClothes for a Summer Hotel における表現形式も「エクリチュール・フェミニヌ」としての潜在性を孕むものであると解釈できる。

しかしながらPortrait de Dora でCixousが拡散的で流動的なエクリチュールで伝えているものはDoraひとりの特権化された視点(意識)である。「エクリチュール・フェミニヌ」とはそもそも“subversive”な性質を有し、特権化を嫌うものではないか。それに対してClothes for a Summer Hotel では視点の焦点化が絶えずScottとZeldaの間で往還し、単一的な意識に還元されることはない。この視点の特権化を拒む性質はWilliamsが、無意識的にではあれ、「エクリチュール・フェミニヌ」をCixous以上にうまく戯曲内に取り込んだことを証明しているといえるのではないだろうか。