1. 2.Don DeLilloのMaoII における写真とポスト産業化社会の都市空間

2.Don DeLilloのMaoII における写真とポスト産業化社会の都市空間

日下隆司 日本学術振興会特別研究員


Don DeLilloがMaoU(1991)で描くニューヨークは、ポスト産業化社会の「呪われた風景」(“fated landscape”)である。それは、想像上の中心に群れ集まるヤンキース球場の合同結婚式の熱狂の風景であったり、球場の外の、無人のビルを背に椅子に腰掛ける人々がいる、駐車場で椅子が燃やされる、安アパート群の広がる殺伐とした風景であったりする。Daniel Bellによれば、労働力や機械の条件に左右される生産様式に基づかない、「理論的知」を中軸原理とする「ポスト産業化社会」は、イデオロギーを終焉させ、最新テクノロジーの開発を促し、継続的経済成長をもたらし、そして資本家と労働者というそれまでの社会階層を変革するはずであった。Bellの予測とは異なり、産業の拠点としての中心性を失った都市は、球場の内と外の風景が示すように、想像の中心が散在する世界と疎外され荒廃した世界のオルタナティヴな現実が宿命づけられる。

しかし、こうした風景も、都市においては、メディアの偏在によって、ネオンに照らし出される看板広告に現れる大量生産、大量消費の画一的な商品のイメージで満たされ、凡庸で均質化した、既知/既視のものである。本物と偽物の境界を無化し、シミュラークル(模造物)が実在に取って代わる、Jean Baudrillardの言うハイパーリアルが都市を覆いつくす。他方、均質化された都市は、様々なアウラが宿り、Bill Grayが、シアーズのカタログ商品に亡き父を思い出すように、個人のノスタルジーを喚起する。

これまで、DeLillo作品に対する批評は、こうしたポストモダン的、或いは同時代の消費文化の表象をめぐる観点から行われてきた。しかし、MaoUにおいて、DeLilloは、歴史的転換をなす1989年という時代を色濃く反映しながら、ポストモダン的な状況には回収されない、都市に住む疎外されたマージナルな人々の現実を描く。合同結婚式の参加者たちが写真に撮られることによって、儀式の持つアウラを感じるように、写真だけが、こうした人々を記録として、記憶として留めることができる。都市の「呪われた風景」に積極的にかかわる術は、拒否したはずの作家性の商品化を写真によって推し進めてしまうBill Grayの写真を撮られる姿にあるのではなく、テロリストの少年の覆面を剥ぎ取り、その素顔を撮影するBritaの行為の中にこそ示される。小説の最後の言葉、“The dead city photographed one more time.”が物語るように、写真行為でしか、都市の「呪われた風景」を提示することはできないのだ。

本発表では、BellやBaudrillardが展開する議論を批判的に検証することで、1989年という歴史的事象を参照しながら、写真を通して見えてくる、DeLilloがMaoUで描くポスト産業化社会の都市空間の位相について考察していく。