1. 1.経験することのアポリア ―― Fitzgeraldの短編を中心に

1.経験することのアポリア ―― Fitzgeraldの短編を中心に

澤ア 由起子 関西大学(院)


従来Kenneth EbleやJohn Kuehlが主張してきたように、Pat Hobbyものにおける三人称の語り手は、語り手による"detachment"の感覚―― ひいては、そのディタッチされた感覚から生じる"comic irony"の感覚に意識的になりやすいが、そのクーエルが引用する"Boil Some Water--Lots of It"でも生じているのは、"detachment"のみならず"commitment"の感覚である。これがEdmund Wilson以降、被追放者と追放者、マジョリティとマイノリティの視点としてIrish WASPであるフィッツジェラルドの語りの特徴とされた"double vision"でもあり、こうしたヴィジョンの従うところは、語り手とパットが語りうるハリウッドでは"Pat Hobby's Secret"のようなスタジオ・システムにおける共犯関係や、上述の短編ならば、システムに同化しているパットとそうでない他者の経験の間で生じるエスニック・クレンジングである。他方このヴィジョンが短編シリーズ全般の存在論的現象としてとらえているのは、"the victim of the very plots"としてのパットの経験、宙づりになり脱主体化された、独身の白人中年男性による主体変容の困難である。ハリウッドでのキャリアがありながらも、スタジオ内階層において昇給の見込みがなく、脚本化をめぐっては冷遇されるパットの経験とは、"Two Old Timers"で例証されるような、他者および「過ぎ去った今」としての過去との併置において、パットじしんが調停できない男性主体、先験的主体と齟齬をきたすがそれに耐え、同じプロットの中でステレオタイプを演じ(mask)、反復することで生存する経験である。

"Pat Hobby's Secret"におけるパットは、プロデューサーと共謀し、すでにシナリオの結末を頼まれていた別の作家から、その結末を盗用しようとするが、期待された報酬を失う結末=パットの秘密を迎える。この秘密とは、別の作家に成り代わった報酬に失敗するというよりは、すでに彼じしんでシナリオを発展できないジレンマであり、むしろ共犯関係が顕在化しているのは、スタジオ・システムでの彼の月並みな能力の消耗である。"Boil Some Water"においては、冷遇に激昂する中欧出身の俳優の処遇に対し、パットは理不尽さを演じるが、その正義感にはトーキー到来時に訪れた後発者への軽蔑と、現状に対する自己温存の偽装が見えるのである。本発表では、パットという男性主体がいかに生存していくかを追いつつ、「感傷的な誤謬」(Christphor Ames)を伴いながらも、平凡さへ耐性を保ち、したたかさを秘めるパットの評価を行いたい。