1. 3.Sanctuary における不能の父

3.Sanctuary における不能の父

諏訪部 浩一 東京学芸大学

 

William Faulkner が1920年代に書いた小説、すなわち Soldiers' Pay から As I Lay Dying に至るまでの作品において、「父」は概して無力、あるいはその存在は希薄である。これは1つには "New Woman" の社会進出が進んだ "male anxiety" の時代を反映する現象であるだろうし、もう1つにはロマンティックな詩人として出発した Faulkner が、小説家としての修行期間において「母」というロマン派的主題を探求したことの陰画でもあるだろう。しかしながら、1930年代の Faulkner は社会的関心を深めていくにつれて、作品で「父」というテーマを前景化していくことになる。このような観点からすると、Sanctuary の全面改稿が Horace Benbow の「母探し」から Temple Drake の「父探し」へのシフトであることは、Faulkner のキャリア全体にとって非常に象徴的であるといえるだろう。

本発表の主目的は、このような文脈に Sanctuary を置いてみることによって、Popeye の性的不能の意味を考察することである。物語のヒロイン Temple が示す「判事のイノセントな娘」から「ギャングのファム・ファタール的情婦」への変化は、その2つのステイタスがどちらも彼女の「父」への依存を示すという点において表面的なものに過ぎず、それ故にこの小説が父権制の問題を扱った作品であることを示唆する。そして Temple をレイプするばかりでなくやがては彼女によって "Daddy" と呼ばれる Popeye が性的不能者であることは、Faulkner が父権制をいわば空洞化したシステム、あるいは空洞化しているが故にうまく機能する制度であると見做していたことをも意味するのではないだろうか。

Popeye の不能とは、それが知られない限りにおいて、つまり神秘化されたままである限りにおいて、彼の男性性(「父」としての力)を保証する。これはほとんどファルスの定義そのものであり、またジェンダーがパフォーマティヴな概念であることの例証でもある。そしてさらにいうなら、Caddy Compson という「不在の(神秘化された)中心」にその達成の多くを負う The Sound and the Fury のモダニズムの詩学が父権的であるかも知れないということを、Sanctuary の作者は意識していたようにさえ思えるのだ。物語の結末近くでなされる Popeye の人生の要約的提示はしばしば蛇足として批判されてきたが、この「父」の「脱神秘化」(あるいは "humanization")の持つ意義は小さくない。

旧南部の強き「父」を徹底して脱神秘化する Absalom, Absalom! や Go Down, Moses、旧南部から新南部への過渡期に「父」がいわば自ら脱神秘化してしまう The Unvanquished、そして新南部における「不能の父」を扱う Snopes 三部作といった作品群の起源としてSanctuary を位置付けることが可能であると本発表が示唆できることを期待したい。