1. 2015年度 ALSJ沿革

2015年度 ALSJ沿革

日本アメリカ文学会(The American Literature Society of Japan)の種子が撒かれたのは第二次世界大戦(1939-45)終結の翌年、占領下のことである。まずは東京を皮切りに、ほどなくして関西において、学会形成の胎動が始まっている。

 

東京では1946年(昭和21年)12月に雑誌『アメリカ文化』が<立教アメリカ研究所>から刊行されたのが端緒となった。のちに同誌は1948年1月号から『アメリカ研究』[英文タイトルThe American Review]と変更、1950年10月号で廃刊となっている。いっぽう関西は京都にて、志賀勝、清水光、金関寿夫の3氏を中心に、商業雑誌『アメリカ文学』が1948年(昭和23年)に創刊されたが、これは9号で廃刊となった。やがて1946年に発足した「アメリカ学会」(1966年[昭和41年]設立の全国組織「アメリカ学会」の前身)に所属するアメリカ文学者たち、大橋吉之輔氏や大橋健三郎氏等が世話役を務め、東京の戸板女子短期大学を中心に活動を開始していたアメリカ文学の研究会が1953年(昭和28年)5月に「アメリカ学会文学部会」へと発展する。同年10月に会報 American Literary Review 第1号を発行(発行所は最初は開隆堂、後に評論社)しているが、その編集実務は、1962年(昭和37年)10月に第35・36号の合併号で終刊するまで、大橋吉之輔氏が担当した。ちなみに1959年(昭和34年)12月発行の『American Literary Review --アメリカ文学評論』第30号の編集は、<日本アメリカ文学会>(American Literature Society of Japan)(東京都文京区大塚窪町 東京教育大学英文研究室)、代表者は山屋三郎氏、発行所は松柏社となっている。

 

こうした戦後のアメリカ文学研究の活動を全国的に押し広げる大きな力となったのが、1950年(昭和25年)から1956年にわたり、ロックフェラー財団の援助で毎年夏期に行われた<東京大学・スタンフォード大学アメリカ研究セミナー>と、そのエクステンションとして京都大学と同志社大学との協力により1951年に始まった<京都アメリカ研究夏期セミナー>(1987年まで継続)であった。さらに1949年に始まったガリオア(GARIOA)奨学金(〜1951年)とそれを引き継いだフルブライト委員会(日米教育委員会)奨学金(1952年〜)による留学生派遣により、アメリカ文学への関心が急速に高まっていった。そうした状況のもと、1952年の日米行政協定締結の翌年に、アメリカ大使館の主催で“Nagano Seminar in American Literature and Civilization”、通称「長野セミナー」が開始され(本セミナーは1957年で終了)、その第3回目(1955年8月開催)に、1949年のノーベル文学賞受賞作家ウィリアム・フォークナーが招聘され初来日を遂げたことは、日本のアメリカ文学研究の勢いに一段と弾みを与えた。こうした研究活動を終戦直後から支援したのは、東京、京都、名古屋と徐々に全国23都市に開設されて行った通称「CIEライブラリー」(連合国総指令部[GHQ]の民間情報教育局[Civil Information and Education]統括)であった。

 

「日本アメリカ文学会」という学会名が歴史上初めて登場するのは、1956年のことである。現日本アメリカ文学会東京支部の沿革記事にはこう記録されている。「56年[昭和31年]3月、アメリカ学会から独立して<日本アメリカ文学会>が発足。龍口直太郎氏が会長に選ばれた。年1回の割合で大会を、毎月1回月例研究会を行い、勉強会は、月例会の日を除く毎土曜日に開いていた。(中略)アメリカ学会文学部会発足の頃より東京以外でもアメリカ文学研究の組織が作られ、大橋健三郎氏によれば、<日本アメリカ文学会>は全国組織の様相を呈しており(American Literary Review の投稿者には、地方在住者も含まれている)、一方、九州アメリカ文学会とか関西アメリカ文学会などが独自の活動をしていて、支部会員必ずしも本部会員ではなかった」。つまりこの時点では、全国各地での胎動が見られるものの、まだ今日の連邦制を模した日本アメリカ文学会のすがたは整っていない。ここで回顧されている日本アメリカ文学会は、あくまで現在の日本アメリカ文学会東京支部の原型なのである。それが正式な全国組織の学会として成立し、各地方支部とのゆるやかな連携が織りなされるのはさらに6年後、1962年まで待たねばならない。

 

だが、先を急ぐ前に、ひとまず当時、すなわち本学会成立前の胎動期における各地方支部の草創期を概観しておこう。

 

まず北海道では、「1958年[昭和33年]に至って日本英文学会北海道支部大会が催されたのを機に、北大文学部において、同好の士によって北海道アメリカ文学会の設立が正式に議せられ、ここに学会の発足を見た」(K.I.,C.I.記[井上和子氏・伊藤千秋氏]資料)。東北では、1950年[昭和25年]のころから、横沢四郎氏を含めた「4,5人のアメリカ文学研究者たちの集まり」があり、1954年4月刊行の本部機関誌 The American Literary Review には同氏も寄稿しているから「その頃には、東北支部なるものが、本部に登録されていたとみてよい」(横沢氏資料)。中部では、中部支部が「昭和29年(1954年)5月創立」で「初代支部長は中川竜一氏、会員は29名」であった(横田忠輔氏資料)。関西では、上記の東京における<アメリカ学会文学部会>発足の翌29年[1954年]5月、「<日本英文学会>全国大会が神戸大学(当時、文理学部)で開かれたとき、東京側からの山屋三郎、刈田元司、大橋吉之輔等諸氏が、関西側の浜田政二郎、山下修、東山正芳、谷口敏郎等諸氏と会合して、[東京と]同種の学会の関西での設立を慫慂」し、「翌6月、大阪市立大学靭校舎で設立総会が開かれ、今日の<日本アメリカ文学会関西支部>の前身に当たるものが発足することになる」(山内邦臣氏資料)。中四国では、「1954年5月21日より23日までの3日間、広島アメリカ文化センターの講堂で、<現代アメリカ文学中・四国セミナー>が開催された」後、現支部の前身の「<広島アメリカ文学会>が結成され、わずか30名ほどの会員で活動を開始したのは. . . 1961年7月のことだった」(岩佐正澄氏資料)と記録されている。九州では、九州支部の前身の<九州アメリカ文学会>が「1955年2月25日から26日まで、福岡アメリカ文化センター、長崎アメリカ文化センター、九州大学の三者共催でアメリカ文学セミナーが福岡で開かれたことが機縁となって、同年11月[6日]発足となった」と記されている(橋口保夫氏資料)。おおむね1950年から58年にかけて、北海道から九州におよぶ各地方におけるアメリカ文学研究への情熱が高まっていたのがわかるだろう。

 

こうして全国組織結成の機運が高まり、1962年(昭和37年)10月26日(金)午後5時から全国協議会(於京都ホテル)が開催されて、現行の「日本アメリカ文学会会則」の大綱が決定、翌27日(土)の第1回全国大会(於同志社大学)をもって、日本アメリカ文学会は誕生したのである(国重純二、鴫原真一、山下修3氏の資料)。この大会の開会の辞は、「日本アメリカ文学会会長 山屋三郎」、閉会の辞は「日本アメリカ文学会関西支部長 上野直蔵」と記され、午前の部で11件の発表、午後の部で2件のシンポジアムが行われている。この歴史的瞬間について、高村勝冶氏はこう説明している。

 

「いままでのアメリカ文学会は、いわば、自然発生的なものであった。まず東京にアメリカ文学研究の研究者が集まってアメリカ文学会を作り、やがて、関西はじめ各地にアメリカ文学研究の会ができ、日本アメリカ文学会という組織ができたのだった。しかし、これらの会はきわめてルーズな結びつきしか持たなかった。おのおののグループが自由に活動し、ただ、東京の本部から出ていたパンフレットによって、相互に消息を交換するという程度のものであった。しかし、こんどの改組では、この結合がずっと強化された。むろん、各支部(東京も支部のひとつとなった)とも、自由に研究活動をやるのだが、その支部のうえに、あらたに本部という組織がおかれた。つまり、アメリカ合衆国みたいなもので、federationの組織なのである」(『英語青年』1963年8月号)。かくして、七つの支部から成る全国組織の基礎が、翌1963年5月26日の全国代議委員会で確立する。「役員の選挙が行われて、会長は杉木喬氏に、副会長は大橋健三郎氏に決まり、事務局は慶應義塾大学に置かれることになった。(中略)初代[会長]の杉木喬氏が没年の1968年まで連続三選された。次いで1969年から1973年までが刈田元司氏、1973年から1977年までが山内邦臣氏、1978年からは大橋健三郎氏へと引継がれて現在[1978年]に至っている。学会の実際的な運営については、1970年度から事務局を2年交替の輪番制とすることになり、まず京都大学が担当した。次いで72年度からは津田塾大学に、74年度からは大阪市立大学へと移転した。しかし、本部が絶えず変わると不都合も生じるので、1976年度からは本部を固定化すると共に、役割を分担することになり、事務局(京都大学)のほかに、編集室(立教大学)と資料室(愛知淑徳短期大学)をもうけた」(鴫原真一氏資料)。以後、日本アメリカ文学会は1962年の最初の全国大会から順調に発展し2011年には第50回を迎え、機関誌『アメリカ文学研究』は学会発足の翌年1963年に創刊号が発行されて以来一号も欠かすことなく2013年度には第50号を刊行するに至る。

 

こうした原型的な体制が確立してからは、日本アメリカ文学会の歴代会長は大橋健三郎氏の後、金関寿夫、松山信直、井上謙治、志村正雄、鴫原真一、国重純二、別府惠子、平石貴樹、田中久男、折島正司、そして巽孝之へと引き継がれている。本部事務局は京都大学の後、甲南大学、同志社大学、大阪女子大学、関西大学、関西学院大学、大阪外国語大学、大阪大学、神戸市外国語大学へと受け継がれ、編集室は立教大学以後、東京都立大学、東京学芸大学、中央大学、学習院大学、実践女子大学、東京女子大学、慶應義塾大学へ、資料室は愛知淑徳短期大学から金城学院大学、愛知教育大学へと引き継がれている。本部事務局と編集室、資料室という三つの柱が今日の日本アメリカ文学会の実質的な運営を担い、研究・教育のグローバルな交流を視野におさめた活動の推進を支えてきたと言ってよい。

 

21世紀に入ると、日本アメリカ文学会はいくつか新しい事業に着手するようになった。まず、わが国のアメリカ文学研究者の国際的活躍が顕著になってきたことにかんがみ、2002年度からは従来和英双方の論文を掲載してきた機関誌『アメリカ文学研究』を和文号とし、別個にThe Journal of the American Literature Society of Japanと題する英文号を創刊したこと。幸い、同誌掲載論文は北米学界からも注目を浴び、ニューヨークを拠点とするチェルシーハウス社よりハロルド・ブルームが編纂する作家論/作品論シリーズにも二編が転載されるに至っている(2014年以降は本学会誌掲載論文は過去十年分がすべてネット上で読むことができる)。つぎに、電脳化の趨勢に合わせたより迅速にして円滑な情報の共有と発信のために、田中久男会長時代の2003年より日本アメリカ文学会独自の公式ウェブサイトの可能性を模索し、2004年にはようやくその運用規定が確立して開設に至り、それに応じて七つの支部もすべて公式ウェブサイトを開く運びになったこと。以来十年を経た2015年には、神戸市外国語大学に置かれた事務局の尽力により、画期的な更新が行われた(http://www.als-j.org/)。そしてもうひとつ、同じく田中会長時代より慎重に検討されてきた日本アメリカ文学会新人賞が、折島正司会長時代の2010年に樹立され、若手研究者の登竜門として新たな才能を発掘してきたこと。先行する日本英文学会新人賞は1978年の設立だが、じっさいはすでに1965年の段階で日本アメリカ文学会九州支部が母体となる九州アメリカ文学会の十周年記念に九州アメリカ文学賞を発足させていたことを考えると、遅きに過ぎたといえるかもしれない。現在では、年齢を問わず初の単著となる研究書を顕彰する学会賞も準備中であり、わが国におけるアメリカ文学研究の水準向上と国際的展開をますます促進すべく尽力しているところである。


(文責:巽孝之 10/10/2015)