1. 3. “The Two Temples” における Melvilleのdiptych的想像力とアポリア

3. “The Two Temples” における Melvilleのdiptych的想像力とアポリア

真田 満 龍谷大学(非)

 

Herman Melvilleは短篇を集中的に書いていた時期に、diptychと形容されることの多い形式の作品を三作書いている。Diptychは、開閉式の二枚の板に絵の描かれた祭壇画である。絵画のコレクターでもあったMelvilleは、区別されつつも決して分離されない主題を表現するには、diptychという形式が有効だと判断したのかもしれない。片側に教義上の人物、もう片側に寄進者、祈念者が描かれた作品を例にとれば、diptychには左右に別々の絵が描かれて区別がなされてはいるが、蝶番で繋がれた左右の絵に信仰という分離しえない物語性が与えられていると言えるからである。Melvilleはdiptych三作品で、それぞれアメリカとイギリスという対照的な舞台のペアを選び、二つ目の物語の最後に、独立した物語を結び合わせて結論付けようと試みる数行を加えている。

発表では、これら三作品の中から最も効果的なdiptych的想像力の所産であると思われる“The Two Temples”を取り上げる。比較対照によって主題を深めることのできるdiptych構成を持ちながらも、最終的には、二項対立的に社会的弱者を生む制度批判へと作品の主題を収束させがちな他の二作とは違い、“The Two Temples”では安易に結論が導けない主題が提起されていると言えよう。この作品は、みすぼらしい身なりをしていたがゆえに教会での礼拝が許されず、不法ながら通気孔へ侵入し、そこから礼拝に参加するが、結局は咎めを被るという、アメリカを舞台にした“Temple First”と、その後イギリスで文無しになりながらも、施しによって教会にたとえられる劇場に入場することを許された語り手が、俳優によって舞台で演じられる枢機卿の演技に信仰を見出す“Temple Second”から成るdiptychである。Melvilleが提出するのは、堕落した権威主義的なアメリカの教会批判だけではない。語り手は、アメリカの教会での礼拝の実演を眺めてそれをshowにたとえ、イギリスで観客を敬虔な気持ちにさせる、社会的にもキリスト教徒としても最高の品位をもつ俳優の演技に対し、“What is it then to act a part?”と自問するのである。ここで問われているのは、真/偽、本質/見かけ、本物/偽物、等の区別の困難さである。形骸化した教会での礼拝や俳優が演じる枢機卿に信仰を見出すことは、共に真の宗教経験であるのか否か。例えば祭壇画であったdiptychは、Melvilleが美術館で鑑賞した時代には、すでに礼拝用から展示用へとその用途が変化している。鑑賞者Melvilleは“Temple First”の会衆のような存在にすぎないのか、それとも“Temple Second”のような宗教体験をしたとして、それは聖なる体験なのか、まやかしなのか。Melvilleが“The Two Temples”で提起する問題は、当時の社会変化が生み出した問題だと言えようが、解決困難な難問である。

このアポリアをめぐって、当時のアメリカの経済・社会問題を交えながら考えてみたい。