1. シンポジアムU(8号館2階 824教室)

シンポジアムU(8号館2階 824教室)

神話のスパイラル――アメリカ文学と銃

司会・ 講師
花岡 秀 関西学院大学
南部スモール・タウンと銃 ―― 境界のスパイラル
講師
中 良子 京都産業大学
公民権運動ナラティヴにおける銃
貴志雅之 大阪外国語大学
帝国支配の記号学 ―― 舞台の上の銃と他者
辻本庸子 神戸市外国語大学
女と銃
渡辺克昭 大阪外国語大学
蘇る標的 ―― DeLillo文学の弾道



アメリカにおける個人の銃の所有に関しては、憲法修正第2条の解釈が絡んでいることは周知の事実である。しかし、昨今、銃を使用した凶悪な犯罪、あるいは、無差別殺人の増加にともなって、一般市民の銃の携帯の是非をめぐって、さまざまな議論が交わされてきた。銃所有に対する法的規制の強化も試みられているが、なかなか効果的な規制にまでは至っていない。何故、現在もなお、アメリカで銃社会が維持されているのであろうか。解釈に微妙な差異はあるものの、憲法修正第2条が一般市民の銃の携帯を法的に容認してきたがゆえに、現在の銃社会が成り立っているとはいささか考えにくい。

強力な殺傷力をもつ、危険きわまりない銃の携帯を容認するアメリカの銃社会をどのように捉えればよいのであろうか。また、この銃社会の背後にあって、その成立を可能とした要因とはいかなるものであろうか。本シンポジウムでは、アメリカ文学をはじめとするいくつかのテクストに描き込まれた銃を多角的に検証することによって、銃がアメリカにまつわるさまざまな神話と複雑に絡み合い、アメリカそのものが多様な象徴性を帯びた銃そのものと怪しく重なり合うことを明らかにしたい。具体的には、まず、南部スモール・タウンという限られた場を舞台とする小説に注目して、銃の象徴的な意味合いの原点を探り、さらに、公民権運動ナラティヴを通して、集団的行動や政治との関わりで銃を考察する。次に、ヨーロッパによるアメリカ大陸発見と征服から現代にいたる歴史の再考を促すアメリカ演劇に目をむけ、人種と銃の関係性を考える。また、角度を変えて、銃社会の容認に少なからず関わってきた女性と銃という問題をも考察しながら、最終的には小説のみならずさまざまなメディア媒体をも射程に入れながら、銃が内包するさまざまな象徴性の変容の可能性を探りたい。


(文責  花岡 秀  関西学院大学)



花岡 秀 関西学院大学


銃とは弾丸を発射することによって、相手を殺傷する武器である。弾丸そのものは自ら回転しながら空間を移動するため、発射する人間と狙われる人間との間には空間が存在する。弾丸の空間移動という視点から銃を眺めるとき、銃はさまざまな「境界」を越えると同時に、その「境界」を映し出し、また新たな「境界」を創り出すものでもある。さらに、銃の使用には、使用する側あるいはされる側に必ず「恐怖」が伴う。この「境界」と「恐怖」をキーワードとして、南部スモール・タウンを舞台とした Faulkner の作品を中心に、小説に描かれた銃を検証する。

そもそも南部とは、空間的にも時間的にもさまざまな「境界」を意識し、「恐怖」に付き纏われてきた地域である。黒人と白人という埋め尽くし難い人種の「境界」、南北戦争を境とした歴史の底知れぬ断層、人種に絡む錯綜した「恐怖」に彩られてきた場が南部である。このように南部を捉えれば、南部小説に埋め込まれた銃は、「境界」を映し出し、さまざまな「恐怖」を集約するものとしての姿を鮮やかに浮かび上がらせることは想像に難くない。しかし、作品に描き込まれた銃はいささか複雑である。本来備えているはずの役割が歪められ、機能を果たさない銃が登場してくる。銃が明確に映し出すはずの「境界」は、曖昧でねじれ、それどころか「境界」を確立できない場合すらある。このように南部小説に描かれた奇妙な銃は、南部を取り巻くさまざまな神話と絡み合って、南部の複雑な局面を提示することになる。さらには、銃は、銃が内包する多様なイメージを喚起し、南部スモール・タウンから外の世界へとその射程の拡大を窺うものとして、その不気味な存在感を膨らませて、読者に迫ってくるのである。


中 良子 京都産業大学


1955年アラバマ州モントゴメリーのバスボイコット運動に端を発した公民権運動は、後に学生運動・女性運動・ベトナム反戦運動・多文化主義・対抗文化など、アメリカにとっての重要な政治的・文化的変革をもたらす原動力となった。この騒乱の震源地となった南部では、非暴力主義に基づく人種平等の思想を暴力によって抑え込もうとする事件が多発する。J. F. Kennedy の暗殺に象徴されるように、銃は60年代アメリカ社会の変容において(逆説的な意味で)重要な役割を果たしたといえる。

元来南部において、銃は先祖から継承される象徴的な意味をもつものであった。またW. J. Cash も南部における暴力をプランテーション制度によって培われたロマンティックな個人主義の表れであると見なしたように、暴力は旧南部の神話において容認されてきた。しかし、公民権運動にまつわる暴力、とりわけ銃による数々の暗殺事件は、どのように受け止められたのだろうか。

本発表では、Martin Luther King, Jr. 暗殺を始めとする公民権運動にまつわる暗殺事件の真相解明を試みた William Bradford Huie のドキュメンタリー作品、Medgar Evers 暗殺事件の起こった夜に一気に書き上げたという Eudora Welty の短篇"Where is the Voice Coming From?" (1963)、Emmett Till 殺人事件を題材にした James Baldwin の戯曲 Blues for Mr. Charlie (1964) を中心に取り上げる予定である。Huie のドキュメンタリーで本人への直接のインタビューや事実関係の取材を通して追求される犯人像、Welty の短篇に描き出される、事件を引き起こす要因となる南部社会に潜む「声」、そして南部社会の外部から、人種偏見の犠牲となった少年の死に捧げられる哀悼歌のなかに、それぞれの作家の異なる視点から捉えられ、異なるジャンルの作品に描き出された銃の表象性を考察する。そこに旧南部の神話の解体と新たな神話の萌芽を読みとることは可能だろうか。銃を通して60年代南部の「アメリカへの参加運動」を見てゆきたい。


貴志雅之 大阪外国語大学


Errol Hill と James V. Hatch は、共著 A History of African American Theatre (Cambridge Univ. Press, 2003) の冒頭で、アフリカ系アメリカ人の歴史をヨーロッパによるアメリカ大陸発見と征服にたどる。そして、この歴史的文脈で、被征服民 "Amerindians" と奴隷化されたアフリカ系アメリカ人との類比的関係を論じ、植民地主義・帝国主義による支配と被支配の関係がアフリカ系アメリカ演劇史編纂の起点となることを明確化する。

本発表は、Hill と Hatch の指摘を手がかりに、アメリカ演劇と銃の関係性を、まずヨーロッパによるアメリカ大陸征服に遡る。銃と十字架によってなされた征服・支配は、ヨーロッパが新世界を略奪・征服する手段のみならず、ヨーロッパとアメリカが互いに他者を見るまなざしを表象する記号として銃(大砲)を映し出す。この点から、コルテスによるアステカ帝国征服物語を描いた Arthur Miller のThe Golden Years (1987) を考察する。

次に、Eugene O'Neill のThe Emperor Jones (1920) をめぐって、皇帝 Jones の銃による帝国支配と死に至る逃亡の過程で投影される白人の黒人支配=奴隷制度の人種的記憶を検討。さらにAmiri Baraka の Slave Ship (1967)、The Slave (1964) に言及しつつ、銃に記号化される黒人と白人の歴史的関係性を考察する。そして、Suzan-Lori Parks の The America Play (1993) と Topdog/Underdog (2001) があらわす黒人登場人物による Lincoln 暗殺事件の再現=再演を、人種的歴史表象の再表象化として読み解いていく。その後、アメリカとアジアの戦争に焦点を移し、日本人戦争花嫁を描く Velina Hasu Houston の Tea (1987)において、銃が投影する、他者にたいする白いアメリカ帝国の歴史的軌跡と現在のありようを論じる。

最終的に、植民地主義からポストコロニアリズムヘの流れの中で、アメリカ演劇が照射する帝国支配の表象としての銃、そして同時に「他者からの逆襲」のメディアとして正史の解体と書き直しを要請する銃の記号性を浮上させることを目的とする。


辻本庸子 神戸市外国語大学


その形状、攻撃性、瞬発性。それゆえに銃は男性性のシンボルと見なされてきた。女性が銃を持てば、護身用とただし書きがつき、女性の強さより、弱さが強調されることになる。しかしその実、現在では1100万人以上の女性が銃を所有し、4丁に1丁の割で女性が銃を購入し、銃を持った果敢な女性が映画や雑誌に登場する。もはや銃は男性の専売特許とは言えないのかもしれない。たしかに女性が非力であればあるほど、銃は手にするにふさわしい武器と言えるだろう。至近距離から打てば、たった一発の銃弾でいとも簡単に巨漢の男性の息を止めることができるのだから。

しかしながら19世紀末から20世紀初頭のアメリカ文学において、銃と女性は至近距離になかった。銃を持つ女性といえば、カラミティ・ジェーン、アニ−・オークレーといった神話的人物が周縁に浮かび上がるぐらいである。それならば、女性が銃を手にし、夫あるいは恋人を射ぬいた時、何が起こるのか。そこから新たな神話が作られていくのか。Zora Neale Hurston の Their Eyes Were Watching God を中心に、考察してみたい。


渡辺克昭 大阪外国語大学


JFK暗殺事件が、作家Don DeLilloの誕生に少なからず寄与したことはつとに知られるところであるが、White Noise (1985), Libra (1988), Mao II (1991), Underworld (1997), Body Artist (2001), Cosmopolis (2003)といった、彼の主要テクストには、何らかのかたちで“shooting”というテーマが骨太に貫通している。

Maria Mossとのインタヴューにおいて、DeLilloは、「アメリカ人の心のなかには、広大な風景のなかにたたずむ孤独な個人がいる。馬に乗っているにせよ、車を運転しているにせよ、いずれも銃を携えている。これこそアメリカの神話の本質的なイメージの一つだ」と述べている。この言葉に集約されるように、そもそも銃は、孤独なアメリカ人が茫漠たる荒野を征服するのに不可欠な、速度メディアと密接な共犯関係にあった。直線的に時空を超越し、自らの手を汚すことなく瞬時にして欲望を実現するこのlethalなテクノロジーこそ、Manifest Destinyを駆動するアメリカ的purenessの守護神だったのである。

だが、そのようにほとんど不可視にしてirrevocableな速度メディアとして銃の神話は、JFK暗殺事件に象徴されるように、映像メディアを巻き込みながら、アメリカの神話それ自体を究極的に標的とするとき、脆くも内側から自壊する。弾道さえも可視化しかねない映像が反復して暴き出すのは、死へと逢着する弾丸の向こうに亡霊のごとく蘇る標的の姿である。相同性を孕みつつも無限に乱反射し合う“shooting” (撃つ/写す)を通じて、死をもたらされたはずの標的が、妖しいアウラを放つシミュラークルと化し、無限に再生を繰り返すという悪夢がここに前景化される。

こうした視座に立ち、本発表では、DeLilloが「銃」にいかに多様かつ重層的な表象を担わせてきたのかをまず概観したうえで、アメリカという文脈において銃そのものに賦与されてきた即時的/即自的なメディア性が、彼の文学の特徴をなす銃と映像メディアの共振的な反復性や差延性といかなるアポリアを生成するかについて考察を加えてみたい。その作業を通じて、DeLilloが、内側から捻りを加えたアメリカの神話のスパイラル上に、「銃」をどのように再定位しているかが浮き彫りになれば幸いである。