1. 第8室(8号館1階 812教室)

第8室(8号館1階 812教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
長田 光展

1.身体、言語、記憶の翻訳 ―― Paula VogelのThe Baltimore Waltz

  石田 愛 : 大阪外国語大学(院)

2.Clothes for a Summer Hotel 再考―― Williams 流エクリチュール・フェミニヌ

  坂井 隆 : 大阪市立大学(院)

野沢 公子

3.アメリカによるハイチ侵攻(1915-1934)のFaulknerおよびハリウッド映画界への影響

  大和田 英子 : 早稲田大学

4.メイド・イン・アメリカ ―― Wallace Irwinのハシムラ東郷連作と映画Hashimura Togo

  宇沢 美子 : 東京都立大学



石田 愛 大阪外国語大学(院)


「ジェンダー」及び「人種」はアメリカ文学において重要な分野を形成してきた。現在では「セクシュアリティ」もアイデンティティの一部となり、「クイア」と自らを呼んだ同性愛者達が社会に向けて声を発している。しかし、「クイア」という一括りにされた人達ははっきりと分節化されているとは言い難い。男性と女性の同性愛者、つまり「ゲイ」と「レズビアン」が同じレベルで議論され、共通の理論を用いて語られているのである。レズビアンの劇作家Paula Vogelは、文学の歴史そのものとそれが扱ってきた人間の歴史について、フェミニズム的視点からゲイ作家とレズビアン作家の違いを指摘する。そして、同性愛の中にも男性中心主義が確立していることを訴える。同性愛の「女性」劇作家と、同性愛の「男性」劇作家との違いは、彼女たちが、築かれてきた土台や伝統的な「声」を持たないことだ。

クイア言説は「異性愛主義」の権威の解体を促す。しかしクイア文学を、男性中心的、つまり「ゲイ」の文学としてのみ読み、伝統的な声を持たない「レズビアン」言説を分節化しないことは、男性中心の枠組みから抜け出たことにはならない。そして、この男性中心の「同性愛主義」、「異性愛主義」言説が編み出した「歴史」に組み込まれない存在、「同性愛の女性」とはどういった存在なのだろう。彼女達の「声」は聞かれ、理解されることができるのか、さらには何かに「表象される」ことは可能なのだろうか。

VogelのThe Baltimore Waltz (1992)はそのような文化的カテゴリーの「間」を描いた作品であると言える。Vogelの兄Carlのエイズによる死をもとに描かれ、劇中には同じようにCarlとAnnaという兄妹が登場する。しかし全くの実体験を書いたリアリズムではない。まず舞台は大きくアメリカからヨーロッパへと離れる。二人はホモセクシュアル、感染病を理由にアメリカ社会から離れることを余儀無くされたのだ。しかし、Annaの記憶の中に故郷「アメリカ」はあり、その社会で抑圧された思いは兄との会話や度重なるヨーロッパ人男性との性行為を通して表現される。各シーンはエピソードとして構成され、シーンの最初には外国語の動詞の語形変化がナレーションで説明される。その後その動詞の具体的な内容が、語られ、体現されることになる。

アメリカ社会で抑圧された「声」は、舞台をヨーロッパに移し、外国語で表され、どのように「読みとられ」るのだろうか。アメリカ社会からのアウトサイダーであるCarlとAnnaであるが、ヨーロッパというまたも二人が属していない世界を通して、彼らの「声」はどのように聞かれ、表象されるのか。さらにはそのような「声」は実際に表象されることはできるのだろうか。本発表では中心言説の枠組みで抑圧された声を表象することを「翻訳」とし、この概念をもとにこの作品を考えていきたいと思う。


坂井 隆 大阪市立大学(院)


本発表では、Tennessee Williamsの最晩年の戯曲 Clothes for a Summer Hotel (1980)を、主題と形式両面においてそれと類似したHelene Cixousの戯曲Portrait de Dora (1976)と比較する。この比較を通してそのWilliamsの作品の表現形式が「エクリチュール・フェミニヌ」として潜在性を孕むこと、さらには一人の特権化された焦点人物を配さないことによってそのエクリチュールを演劇化することにCixousの戯曲以上に成功していることを証明する。  

F. Scott FitzgeraldとZelda夫妻を題材にしたClothes for a Summer Hotel は夫Scottの圧制のもとでかき消されたZeldaの「声」―作家・創作者としての声―を再生させると同時に戯曲内のScottが体現する家父長的性格(そして、それを支えるマチーズモ崇拝)を問題化する。このフェミニスト的主題はPortrait de Dora のそれと類似する。「エクリチュール・フェミニヌ」を演劇に応用したCixousはFreudとその患者Doraを題材にしてその戯曲を創作したわけだが、その作品ではFreudの強引な精神分析に抵抗するDoraの姿が呈示され、フロイト解釈に刷り込まれた家父長的、男権主義的性格が糾弾される。これは、男性優位者の圧制の下にかき消された女性の「声」を再生させると同時に家父長制的なものを問題化するという意味において、Clothes for a Summer Hotel の主題に通底するものといえる。また、技法に注目すると、両戯曲とも非直線的な劇構造をもち、複数のエピソードが時間軸を無視して流動する。Cixousは、女性の身体性を反映したエクリチュールを意識してこの技法を採用しているわけだが、そうするとClothes for a Summer Hotel における表現形式も「エクリチュール・フェミニヌ」としての潜在性を孕むものであると解釈できる。

しかしながらPortrait de Dora でCixousが拡散的で流動的なエクリチュールで伝えているものはDoraひとりの特権化された視点(意識)である。「エクリチュール・フェミニヌ」とはそもそも“subversive”な性質を有し、特権化を嫌うものではないか。それに対してClothes for a Summer Hotel では視点の焦点化が絶えずScottとZeldaの間で往還し、単一的な意識に還元されることはない。この視点の特権化を拒む性質はWilliamsが、無意識的にではあれ、「エクリチュール・フェミニヌ」をCixous以上にうまく戯曲内に取り込んだことを証明しているといえるのではないだろうか。


大和田 英子 早稲田大学


本発表は、論理的な筋道に立ち、説得力ある解釈をめざす試みではなく、社会・政治、文化の接点を考察し、相互の緩やかな影響関係を探索しつつ、1930年代とフォークナーを中心としたアメリカ文学における一側面を照射しようという試みである。

ウィリアム・フォークナーがノーベル賞受賞以前、主として経済的理由から、ハリウッド映画界で脚本を書く仕事に従事していた事実はよく知られている。フォークナーはハリウッドでハワード・ホークスらと出会い、モンタージュに代表されるモダニストたちの革新的な表現方法にも出会う。それはフォークナー自身のモダニスト的表現方法とも絶妙に一致していた。

他方、フォークナーが経済的に困窮していた時代は、大恐慌もさることながら、1915年から1934年にかけてのアメリカ海兵隊によるハイチ侵攻の時期にも重なっている。2004年初頭におこったハイチでの争乱も、日本では小さな新聞記事にはなったが、2004年4月現在では、イラク戦争のいわゆる「戦後処理」やそれにまつわる諸事件にかき消されてしまった感が否めない。同様に、20世紀前半におけるアメリカによるハイチへの軍事侵攻は、当時は世界的ニュースになったものの、その後、その影響がどのように文化人の想像力に残留したのか、芸術上ではどのような感応を惹起したのか、十分に検証されてきたとは言い難い。

よって、本発表では、文化的創造的エネルギーの塊である映画界が、アメリカ軍によるハイチ侵攻をどのように描出したのか、あるいは、しなかったのか、を検討する。そして、フォークナーがそのハリウッド映画界の片隅にいた、という事実を考慮すると、いかなる想像力やコンテクストが仮定されうるのか、そして、それは、アメリカ文学において、いかなる意味を提供しうるのか、あるいは、提供しえないのか、という点について考察したい。

本発表では、フォークナーの作品におけるハリウッドに対する反応から出発するものの、発表の帰着点に到着するまでには、推論の対象がより拡張・拡大し、文学作品そのものの解釈というより、文学作品を出発点とし、作家の生きた筋道を辿りつつ、文化的コンテキストを包括するという経過が予測されることを付け加えておきたい。


宇沢 美子 東京都立大学


1907年に登場して以来30余年、アメリカで「日本人」の代名詞として活躍したハシムラ東郷は、白人作家ウォラス・アーウィンのペンから生まれた仮想日本人である。1910年代にGood Housekeeping に長期連載され不動の人気を確立し、1917年には映画Hashimura Togo が人気絶頂の早川雪洲主演でリリースされた。イエローフェイスとして出発した東郷が、映画のなかで正真正銘の日本人俳優によって演じられ、東郷は日本人という虚構は真実となった。だが、アーウィンの意図した東郷と映画で早川が演じた東郷は、似て非なる人物であった。本発表では二人の東郷像の相違点に焦点をあて、ハシムラ東郷の複雑な魅力に迫りたい。

ハシムラ東郷はエレイン・キムやフランク・チンらにより、人種差別の表象として批判されてきた異人種表象である。人種差別的要素が存在することは否定しないが、東郷には、一言「人種差別」の所産では終わらせられないアンビヴァレンスがある。東郷の「和製英語」は、従来ミンストレル劇で移民や異邦人を描くときに用いられてきた常套を踏襲しながらも、秩序を破壊しかねないユーモアを持つ。また一流紙に報じられた日本人学僕東郷の活躍は、それまで白人優位のアメリカ社会で無視され、在米日系社会においては蔑視されてきた学僕という職への、初の白人社会からの社会的認知を意味し、まただからこそ在米日系社会から三者三様の反響を引き出した。さらに家庭内の非熟練労働者の最下層に位置づけられる学僕という職業ゆえに、東郷は白人中産階級女性像とも直に関わった。家庭雑誌への長期連載で、問題ありの使用人という道化師的な仮面の下から、雇い主の主婦層のみならず家政学に対する鋭敏な社会批判を繰り広げることに成功した。

1910年代後半に東郷の人気は頂点をきわめ、その人気ゆえ1917年には映画がリリースされたはずだった。だが原作と映画では東郷の人物設定のみならず、戦うべき相手も、話の演出も随分と異なる。原作の東郷の最大の存在意義であった家庭礼賛の実態や女主人たちの横暴を暴くという視点は映画には見られない。また現存するこの映画のスチル写真には、洋装でも和装でもきわめてダンディな東郷/早川の姿が写し出されているが、審美的な東郷像はそれまでなかったわけではないが、やはり東郷のイラスト史のなかでは周縁的な存在にとどまる。原作の東郷は、「ハラキリ!」と威嚇の為に感嘆符つきで叫ぶことはあっても、映画の東郷のように切腹(未遂)をしたことなどない、等々、オリジナルとコピーはすさまじく異なる。特に原作の東郷はその諧謔精神を発揮するためにも、できるかぎりジャポニスムに抗い、映画の東郷はあくまでもジャポニスムに浸ってみせた。ジャポニスムに対する距離の取り方の違いにこそ、二人の東郷の最大の違いと魅力を見出すことができるのではなかろうか。