1. 第7室(2号館2階 224教室)

第7室(2号館2階 224教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
石割 隆喜

1.Paul Auster のMoon Palace における身体と時間

  内山 加奈枝 : 中央大学(非)

2.Don DeLilloのMaoII における写真とポスト産業化社会の都市空間

  日下隆司 : 日本学術振興会特別研究員

柴田 元幸

3.アメリカの中の二つのアメリカ ―― Steve Erickson のArc d'X とあるアメリカ人作家による記憶の追求

  井出 達郎 : 北海道大学(院)

4.Kurt Vonnegut, Galapagos における進化を語る幽霊

  中山 悟視 : 福島工業高等専門学校



内山 加奈枝 中央大学(非)


初期の作品群、The New York Trilogy において、そのポストモダニズム的言語観から、主体の概念の死を描いたと思われるPaul Austerであるが、初期の作品から倫理的主体のありかたが模索されているように思われる。Austerの登場人物の多くは、自らの意志を超えた偶然性に翻弄され、能動的主体性への信頼は失われている。自由意志に基づく主体なくして倫理の追求は一見困難におもわれる。しかしながら、自律的主体に安息するというブルジョア思考に回帰することなく、倫理的主体の可能性が問われているように思われる。本発表では、ユダヤ人哲学者Emmanuel Levinasの思想に基づき、Moon Palace (1989)における倫理的側面について、身体と時間との関連性から論じたい。

孤児Marco Stanley Fogg は、経済的危機に陥った時、労働や奨学金などの手段を拒否し、飢えに苦しみ、家を失う。その理由として、唯一の肉親である伯父の喪失が考えられるが、親しい者が亡くなっても尚、自己から逃れることはできないという実在の苦しみからの逃走として飢えを解釈したい。飢えは、所有と定住への反問という意味で、極めてユダヤ的である。さらに、Kitty Wuとの恋愛の挫折は、予測不可能性としての他者と向きあうことの挫折と考えることができる。Levinasによれば、孤独の実在から他者に到達する道は、エロスと父性(子を持つこと)である。Kittyの堕胎によって子を持つことができないMarcoが自己充足から抜け出し、他者にいたる唯一の可能性は、祖父Thomas Effingの法外な自伝のただ一人の聞き手となり、それを語ることのできる唯一者になることにあるのではないか。他者の話を証拠なしに信じるということは、Austerの作品に繰り返えされるテーマだが、他者に応答せざるをえないのは、他者が身体のうちで絶えず自己喪失をし、老い、死んでいく存在だからである。

Levinas は、老いの刻まれた他者の顔に他者の「現前」ではなく、「痕跡」をみる。他者の現在にいつでも遅れている私は、他者と時間的現在を共有することはできない。私はいつでも他者の呼びかけに対して遅れており、その遅れに対して不断の責めを負うことが主体性だというのだ。他者への負いは自分の意志で選択できることではなく、受動的な事柄である。Austerの小説では、他者の死にたいして、それが偶然なのか自分の責任なのか判別しがたい時にでも、責めを負う主人公が数多く現れる。Marcoの祖父と父の老い、怪我、死における身体の変容の強調は、3世代の男性によって繰り返されてきた、未来や過去を自己の現在の内に回収するという資本主義的「同の時間」の批判として機能しているように思われる。本発表では、Moon Palaceにおける、飢え、睡眠、性愛、父子関係、老いなどの身体の観点から、倫理的主体と時間との関係について論じたい。


日下隆司 日本学術振興会特別研究員


Don DeLilloがMaoU(1991)で描くニューヨークは、ポスト産業化社会の「呪われた風景」(“fated landscape”)である。それは、想像上の中心に群れ集まるヤンキース球場の合同結婚式の熱狂の風景であったり、球場の外の、無人のビルを背に椅子に腰掛ける人々がいる、駐車場で椅子が燃やされる、安アパート群の広がる殺伐とした風景であったりする。Daniel Bellによれば、労働力や機械の条件に左右される生産様式に基づかない、「理論的知」を中軸原理とする「ポスト産業化社会」は、イデオロギーを終焉させ、最新テクノロジーの開発を促し、継続的経済成長をもたらし、そして資本家と労働者というそれまでの社会階層を変革するはずであった。Bellの予測とは異なり、産業の拠点としての中心性を失った都市は、球場の内と外の風景が示すように、想像の中心が散在する世界と疎外され荒廃した世界のオルタナティヴな現実が宿命づけられる。

しかし、こうした風景も、都市においては、メディアの偏在によって、ネオンに照らし出される看板広告に現れる大量生産、大量消費の画一的な商品のイメージで満たされ、凡庸で均質化した、既知/既視のものである。本物と偽物の境界を無化し、シミュラークル(模造物)が実在に取って代わる、Jean Baudrillardの言うハイパーリアルが都市を覆いつくす。他方、均質化された都市は、様々なアウラが宿り、Bill Grayが、シアーズのカタログ商品に亡き父を思い出すように、個人のノスタルジーを喚起する。

これまで、DeLillo作品に対する批評は、こうしたポストモダン的、或いは同時代の消費文化の表象をめぐる観点から行われてきた。しかし、MaoUにおいて、DeLilloは、歴史的転換をなす1989年という時代を色濃く反映しながら、ポストモダン的な状況には回収されない、都市に住む疎外されたマージナルな人々の現実を描く。合同結婚式の参加者たちが写真に撮られることによって、儀式の持つアウラを感じるように、写真だけが、こうした人々を記録として、記憶として留めることができる。都市の「呪われた風景」に積極的にかかわる術は、拒否したはずの作家性の商品化を写真によって推し進めてしまうBill Grayの写真を撮られる姿にあるのではなく、テロリストの少年の覆面を剥ぎ取り、その素顔を撮影するBritaの行為の中にこそ示される。小説の最後の言葉、“The dead city photographed one more time.”が物語るように、写真行為でしか、都市の「呪われた風景」を提示することはできないのだ。

本発表では、BellやBaudrillardが展開する議論を批判的に検証することで、1989年という歴史的事象を参照しながら、写真を通して見えてくる、DeLilloがMaoUで描くポスト産業化社会の都市空間の位相について考察していく。


井出 達郎 北海道大学(院)


スティーヴ・エリクソンの『リープ・イヤー』(1989)と『Xのアーチ』(1993)は、語られない歴史と語られる歴史からアメリカを物語ろうとする試みを前提としながら、そのような物語を語る主体の存在を前景化する。歴史を語ろうと試みながらもすでに歴史によって語られてしまっている存在、決して歴史を外側から語ることができない宙吊りの存在が、そこには浮かびあがってくる。本発表では、両作品に共通するこの宙吊りの語り手と、それに対して提示される記憶という概念を考察することで、テクストの提示する歴史における真の主体の問題を読み解いていく。

まず『リープ・イヤー』の構造を検討することで、語り手の宙吊りとなった主体性を明らかにする。1988年の大統領選挙をルポルタージュに書いたこの作品は、そのノン・フィクションという構造にもかかわらず、語り手であるエリクソンの主体性が、もう一人の語り手であるサリーと同列に置かれている。そのためテクストの中の語り手エリクソンは、フィクションにおける一人の登場人物でしかない。ノン・フィクションを語ろうとしながらフィクションしか語れないという宙吊りの状態に気がついていきながら、アメリカを語るエリクソンは、アメリカの物語を語る自らの主体の問題へ到達する。

この到達点は、次の作品である『Xのアーチ』に引き継がれ、歴史を語る主体の問題としてさらに展開される。第三代大統領トマス・ジェファソンとその愛人のサリーを中心とし、語られなかった歴史の物語であるかのように始まるこのテクストは、「私」という主体的表現を表す代名詞を通して、「トマス・ジェファソンの物語を語る『私』」の物語となっていく。その物語は、「私」という存在が、すでに歴史に語られてしまっているゆえに、語られない歴史を語ろうとする主体性を奪われてしまっているということを明らかにしていく。語られる歴史から離れようとしながら、しかし語ろうとする歴史には届かないという、宙吊りにされた主体をそこにみることができる。

これらの宙吊りの主体に対してテクストは、記憶という概念を提示することによって、語られる歴史/語られない歴史という対立関係そのものを乗り越えようとする。『リープ・イヤー』から始まり『Xのアーチ』へと辿りついた「私」という主体の物語は、宙吊りという状態そのものに新しい意味を与え、新しい主体のヴィジョンを表明する。歴史への到達不可能性を受け入れながらも解釈しつづけること、同時に解釈することによって自らもまた解釈しなおされ続ける客体になること、歴史に対するこのようなあり方を記憶と名づけながら、テクストは「私」という主体の新しい物語を語っていく。


中山 悟視 福島工業高等専門学校


Kurt Vonnegut(1922- )11作目の長編小説 (1985)は、Slaughterhouse-Five 以降の他の作品同様、取り上げられることは少ない。60年代以降、小説形式そのものの可能性が模索される中で、Vonnegutの小説が評価されたのは必然であったろう。しかしながら、Slaughterhouse-Five 以後の小説がそれとの比較によってのみ評価されてしまうことには問題がある。かつてVonnegutが評価された要因の一端が「語り」などの小説技法にあったとすれば、特にGalapagos はあらためて検証してみる必要があるのではないか。

Galapagos において人類は、百万年という時間を要し、高度な知能やテクノロジーという人類文明を捨てることで平穏な生活を手に入れる。これは現代社会への皮肉と読める。しかし、この人類進化の過程には様々な歴史的・文化的要素が入り混じる。その百万年にもわたる進化を語るのは、客船の造船中に事故死した幽霊Leon Trout。Leonは百万年の物語を語る上で欠かせない物語装置であり、だからこそLeonはこの物語の解釈に多大な影響力をもつ。

Leonは造船中に落ちてきた鉄板に頭部を切り落とされてしまったため幽霊となってこの船にとりついているのだが、実体化を遂げた彼は切断された頭部をバスケットボールのように頭上に持って現われる。また、生存者たちを乗せた客船には信頼できる船長も海図も羅針盤もなく、いわば「頭脳」の不在によって方向感覚を失ったその船はガラパゴス諸島の孤島サンタ・ロサリア島に座礁することになる。この「頭部」の消失のイメージは、Galapagos における進化の形態、すなわち萎縮した巨大脳に重なってくる。

さらにMandaraxというスーパーコンピュータが物語の展開に重要な役割を果たす。Mandaraxが導き出す言葉に従っても船は座礁を免れず、Maryは人類の進化に重要な手続きを行うことを決意する。一方、その一部始終を見ながら、LeonはMandaraxからの様々な言葉を自らの語りに差し挟んでいく。

Galapagosに関する批評の多くは、100万年後の結末の是非を問うことに終始している。しかし、この小説におけるVonnegutの様々な物語的謀略を問わずには、Vonnegutの進化を語ることはできまい。本発表では、Galapagos が描く様々な身体的特徴に留意しながら、人類進化の過程と語り手Leonを注視する。Galapagos が提示するのは、現状から敷衍しうる憂慮すべき未来予測や現代社会への警句などにとどまらず、進化の概念自体の相対化であることを明らかにしつつ、特異な語りを媒介とする Galapagos のナラティブの問題を検証してみたい。