1. 3.Hitchcockの視線のその先――映画におけるポストモダニズム

3.Hitchcockの視線のその先――映画におけるポストモダニズム

岩田和男 愛知学院大学


視線を問題にするのはヒッチコック(Alfred Hitchcock)論のいわば定番である。しかし、本発表は、「見る/見られる主体の精神分析」とはほとんど無関係である。なぜなら、もっと即物的な意味で、ヒッチコックとは、初期の作品から一貫して、ある人物(A)が何か(B)を見ていることを示す視点ショット(A→B→A)に魅せられた監督だったからである。本発表の力点はそこにある。

たとえば、イギリス時代の作品である『三十九夜』(The Thirty-Nine Steps 1935)で、主要登場人物であるハネイとパメラの二人を交互に映す視点ショット(A→B→A)、そして、さらに二人が見つめあうショットへと展開するシークエンス(A→B→A→C)は、事件の解決もさることながら、映画のカタルシスそのものを見るものにもたらす。ハネイとパメラの信頼関係が、視点ショットの積み重ねで構成されたシークエンスを通じて、観客に共有されるからである。それは往年のハリウッド映画がもっていた特徴にとてもよく似ていて、まるでイギリスで撮られたアメリカ映画のようである。

だからこそ、ヒッチコックはアメリカに大きな期待を抱いて渡米したのだが、それは「非現実的な期待(unrealistic expectations)」だった。検閲制度に端を発する現場とプロデューサーの交渉あるいは干渉の実態を、彼は正しく把握していなかったからである。そのことからくるやるかたない憤懣は、たとえば『逃走迷路』(Saboteur 1942)における「真のアメリカ」をめぐるエピソードに反映している。しかし、この映画の面白さはそれにとどまらない。ヒッチコックの視線、すなわち、視点ショットに関わる重要な深化が、この映画の奥深くにもっとラディカルなものを内包させているからである。

そのラディカルさとは、「それが利害の対立する関係をも超越して示してしまう同一性発見の契機を、共感と呼んでいいのか?」という見る者の恐れである。たとえば『サイコ』(Psycho 1960)において、ノーマンが母に対する複雑な思いを披瀝する場面での視点ショットの使い方は、私たちを激しく動揺させる。ノーマンの母思いに感じ入ったマリオンは、罪を悔い改め家に帰る決心をする。二人の共感(らしきもの)は見る私たちと共有され、作品中唯一の意義深い語りの場面としてこの夕食の場面が閉じたその直後、実はノーマンは、マリオンや私たちの共感とは全然違う世界に住んでいることがわかるのである。

この、窃視から殺人に至ってしまうノーマンの異常にまでも、共感の技法、すなわち視点ショットを持ち込もうとするヒッチコックのラディカルさは、おそろしい。ただし、それを即物的に解きたい本発表は、この作品がテレビに触発されて撮られた映画であることに注目する。その意味で、ユビキタス・メディアであるテレビと同列のコミュニケーション上の新機軸と言うべきハイウェイの話を、ノーマンがしていることは注目に値する。そこには、ポストモダンの地平、すなわち映画の限界が見据えられているかもしれないからである。