1. 1.ポストコロニアル的身体としての人形のあえぎ――アメリカにおけるSalman RushdieのFury

1.ポストコロニアル的身体としての人形のあえぎ――アメリカにおけるSalman RushdieのFury

川村 亜樹 大阪外国語大学(非)


2000年にイギリスを離れてニューヨークへ移り住んだSalman Rushdieがその翌年発表したFury (2001)は、インド人とイギリス人としての履歴を刻印された主人公Malik Solankaが、ニューヨークを舞台に、他者的視点で現代のアメリカ社会・文化を洞察しつつ、ポストコロニアルな自己の身体・主体を思考する物語である。この点において、本作品は、アメリカを中心とするグローバリゼーションと、その内部に包摂されたポストコロニアルな他者との交渉のプロセスを考察する上で重要な作品であろう。

Solankaは幼少期に継父から性的虐待を受け、大人と子供の関係において女装を強要され、口を封じられている点で、植民地化された操り人形としての性質を帯びる。そして、Mr. Venkatに助けられた後も、彼は女装の道具として与えられた人形を持ち続け、後に自ら構築した想像の空間でその道具を占有することで自己の身体の主権を取り戻そうとする。しかし、抵抗の道具であると同時に植民地化された経験の痕跡でもある人形は、彼が構築する世界を内側から崩す。事実、インターネット上のSF物語であったはずの“Puppet Kings”は、サイバースペース内で自己増殖するだけでなく、現実の国家紛争に影響を与える。恋愛事件のあと、彼はNeela Mahendraを追いかけてリリパット・ブレファスキュ国に渡る。そこでは全体主義的権力を握るBaburが、Solankaの分身のような“Puppet Kings”の中心的人物Akasz Kronosの衣装を纏ってCommander Akaszとして現れ、Solankaを人質にして屈辱を与える。結果として、現実と虚構、オリジナルとシミュラークルの境界線が曖昧になり、Solankaのポストコロニアルな身体における自律的な主体性への欲望は、排他的でグロテスクなイデオロギーに反転する。しかし、Neelaの計略によってBaburの体制は転覆され、ポストコロニアルな世界に新たな道が開かれる。このことは、イギリスへ戻ったSolankaが周囲を騒然とさせながら息子Asmaanに向かって自分が唯一の本当の父だと叫ぶラストシーンが孕んでいるアンビヴァレンス、つまり、主体的選択によって自律的な空間を放棄すると同時に自己のオリジナル性を主張することへと繋がっていく。

本作品が描くこうしたプロセスにおける身体・主体の変容は、Homi K. Bhabhaが‘beyond’と呼ぶ空間や、Gayatri Chakravorty Spivakが「あえぎでも沈黙よりはましだろう」と言いながら捜し求める他者を前景化する。以上の点を踏まえ、本発表では、人形を巡って支配者/被支配者双方の立場を揺れ動くSolankaの身体に燻る制御困難な怒りと、妻や愛人との接触によって沈黙を破って発せられるあえぎとしての彼の裏話を通して、ポストモダンにポストコロニアルが重ね書きされるプロセスにおいて、他者としての操り人形が主体性を獲得する可能性について検討したい。