1. 3.自己を葬り去る語り手たち――The Locked Room を中心に

3.自己を葬り去る語り手たち――The Locked Room を中心に

宮ア まりあ 早稲田大学


Paul Auster(1947-)のThe Locked Room (1986)は、ある男が何の前触れもなく家庭と過去の自分を捨て去るという設定であることから、Nathaniel Hawthorneの “Wakefield”(1835)との共通点をしばしば指摘される。しかし二つのテクストにおける明らかな違いは、この男と語り手との関係である。“Wakefield” では語り手と男とのあいだに一定の距離があるが、The Locked Room においては語り手と男が不可分であり、むしろこの二人の関係を読み解くことで、Austerの作品群における登場人物たちの自己の分裂が前景化される。

語り手「私」とFanshaweは、これまでも多くの批評家が指摘してきたように互いの分身であると考えられるが、それと同時にFanshaweを行為者であるとすれば、語り手は観察者であり、記録者であり、その行為を意味づける者でもある。Aliki VarvogliはThe Locked Room に関して論じながら、Fanshaweをあたかも探偵のごとく追っていた語り手が次第にFanshaweの伝記作家へと変容することを指摘している。Austerの特に初期の小説は、しばしば語り手あるいは主人公が探偵としての役割を担わされ、他者に関する何らかの報告を文書によって行わざるをえないことになるが、やがて以降のAuster作品でその報告書はかたちを変え、伝記となり、あるいは研究書となる。

このように、一人の男がもう一人の男の後を追い記録するという設定はAuster作品において繰り返し現れる。Ghosts(1986)のBlueはBlackの後を追い報告書を作成する。The Locked Room の語り手はFanshaweを捜し求め伝記を書く。Leviathan (1992)の語り手AaronはSachsに関する真相を追跡し本にするためにまとめ上げる。The Book of Illusions (2002)では、語り手David Zimmerが喜劇役者Hector Mannについて調べ上げ、研究書を執筆する。こういった二人の登場人物の関係をAusterは執拗に描き続けるのだが、常に語り手あるいは主人公は追う側の者として設定されており、また、ほとんどすべての場合において、死や破滅へと向かう行為者を、記録者は生の側にとどまり描き出すという設定になっている。これは、分裂した自己の一方が、他方を記録することで葬り去る手続きなのではないか。しかし語り手とAusterとが共犯関係にあるとすれば、Austerは分身を常に葬り去り続けなければならないということになる。このような分裂は、さらに遡れば、The Invention of Solitude (1982)第二部 “The Book of Memory” で語り手が自らを「私」と呼ぶことができず、他者「A」とすることではじめて語り得たということに端を発するのではないか。

本発表では、The Locked Room を中心に、Austerのテクストにおける二人の男の関係と、探偵、伝記作家、批評家としての語り手の役割を考察しつつ、最終的にはThe Invention of Solitude のうちにも見出すことのできる自己の分裂がAuster作品で如何に描かれているのかについて探ってみたい。