1. 4.語りえぬものの世界――Don DeLilloのUnderworld

4.語りえぬものの世界――Don DeLilloのUnderworld

都甲 幸治 早稲田大学


本報告では Underworld (1997) における Don DeLillo の試みを扱う。それは冷戦下の世界で無視され言葉を与えられなかったもの、例えば核のゴミ、マイノリティの人々、暗黒街など、彼の言う “underworld” に属する人やモノに光をあて、単純な善と悪の二元論というレトリックに貫かれてきた公の歴史を書き換えることである。それは単に上と下という階層関係、あるいは中心と周縁を転倒させるということではない。高度に商品化された資本主義や、それと連携する軍産複合体によって編まれた社会システムからは切り離せない形で、まさにその中心に、システムに対抗する “underworld” を見出すことである。商品の巨大な集積をゴミの山と見て取り、兵器の集積を核廃棄物のモニュメントとして受け取る視線を獲得すること。冷戦のナラティヴ、あるいは多国籍企業による利潤最大化のナラティヴによって不可視とされた身体性を歴史に取り戻すのが DeLillo のもくろみである。しかも Steffen Hantke が言うように、DeLillo は歴史の身体と卑近な個人の身体というレベルの異なる諸身体をテキスト内でつないでいく。

実際、1936年、Bronx にイタリア系移民の子として生まれた DeLillo の歩み自体がこの Underworld という作品の主題に呼応していると言えるだろう。なにしろ言葉を獲得することにより彼はエスニックな移民の世界から外に出ることに成功したのだから。本作品にも彼の自伝的な要素がふんだんに盛り込まれている。主人公のニックとマットという兄弟はともに Bronx 出身であり、冷戦下の世界でニックは核の技術者、マットは世界中を飛び回る核をも処理するゴミ業者になる。

軍産複合体にゴミといえば、 Thomas Pynchon の The Crying of Lot 49 (1966) における w.a.s.t.e. がたやすく連想されるだろう。DeLillo はこの Pynchon 的な主題を実際の冷戦下アメリカに適応し、現実とフィクションを混ぜ合わせる。そして Pynchon では高速道路のガード下やカリフォルニアの山奥にいた “underworld” の住人たちを社会の中心へ持ってくる。かくして社会の徹底した清潔化、無菌化を目指したCIA 長官フーヴァーは、自らの身体から排出される汚物を盗まれ晒される。冷戦を担った核爆撃機 B-52 は退役後アリゾナの砂漠を埋め尽くし、クララ・サックスによりペインティングが施され巨大な風景画となる。あるいは殺されたストリート・チルドレンの姿がニューヨークのミニット・メイドのビルボードに現れるという噂が流れ、大量の人が集う。清潔はそのまま不潔となり、商品はそのままゴミとなる。反対にゴミは簒奪され組み替えられ再解釈されることで、言葉を与えられるのである。DeLillo にとってそれこそが芸術の、あるいは文学の役割ということになるのだろう。