1. 第6室(6号館3階 C32教室)

第6室(6号館3階 C32教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
寺門 泰彦

1.ポストコロニアル的身体としての人形のあえぎ――アメリカにおけるSalman Rushdieの Fury

  川村 亜樹 : 大阪外国語大学(非)

2.Don DeLilloのMao II と情報社会における小説

  永野 良博 : 上智短期大学

木原 善彦

3.自己を葬り去る語り手たち――The Locked Room を中心に

  宮アまりあ : 早稲田大学

4.語りえぬものの世界――Don DeLilloのUnderworld

  都甲 幸治 : 早稲田大学



川村 亜樹 大阪外国語大学(非)


2000年にイギリスを離れてニューヨークへ移り住んだSalman Rushdieがその翌年発表したFury (2001)は、インド人とイギリス人としての履歴を刻印された主人公Malik Solankaが、ニューヨークを舞台に、他者的視点で現代のアメリカ社会・文化を洞察しつつ、ポストコロニアルな自己の身体・主体を思考する物語である。この点において、本作品は、アメリカを中心とするグローバリゼーションと、その内部に包摂されたポストコロニアルな他者との交渉のプロセスを考察する上で重要な作品であろう。

Solankaは幼少期に継父から性的虐待を受け、大人と子供の関係において女装を強要され、口を封じられている点で、植民地化された操り人形としての性質を帯びる。そして、Mr. Venkatに助けられた後も、彼は女装の道具として与えられた人形を持ち続け、後に自ら構築した想像の空間でその道具を占有することで自己の身体の主権を取り戻そうとする。しかし、抵抗の道具であると同時に植民地化された経験の痕跡でもある人形は、彼が構築する世界を内側から崩す。事実、インターネット上のSF物語であったはずの“Puppet Kings”は、サイバースペース内で自己増殖するだけでなく、現実の国家紛争に影響を与える。恋愛事件のあと、彼はNeela Mahendraを追いかけてリリパット・ブレファスキュ国に渡る。そこでは全体主義的権力を握るBaburが、Solankaの分身のような“Puppet Kings”の中心的人物Akasz Kronosの衣装を纏ってCommander Akaszとして現れ、Solankaを人質にして屈辱を与える。結果として、現実と虚構、オリジナルとシミュラークルの境界線が曖昧になり、Solankaのポストコロニアルな身体における自律的な主体性への欲望は、排他的でグロテスクなイデオロギーに反転する。しかし、Neelaの計略によってBaburの体制は転覆され、ポストコロニアルな世界に新たな道が開かれる。このことは、イギリスへ戻ったSolankaが周囲を騒然とさせながら息子Asmaanに向かって自分が唯一の本当の父だと叫ぶラストシーンが孕んでいるアンビヴァレンス、つまり、主体的選択によって自律的な空間を放棄すると同時に自己のオリジナル性を主張することへと繋がっていく。

本作品が描くこうしたプロセスにおける身体・主体の変容は、Homi K. Bhabhaが‘beyond’と呼ぶ空間や、Gayatri Chakravorty Spivakが「あえぎでも沈黙よりはましだろう」と言いながら捜し求める他者を前景化する。以上の点を踏まえ、本発表では、人形を巡って支配者/被支配者双方の立場を揺れ動くSolankaの身体に燻る制御困難な怒りと、妻や愛人との接触によって沈黙を破って発せられるあえぎとしての彼の裏話を通して、ポストモダンにポストコロニアルが重ね書きされるプロセスにおいて、他者としての操り人形が主体性を獲得する可能性について検討したい。


永野 良博 上智短期大学


本発表ではDon DeLilloのMao II (1991)を、二十世紀後半のアメリカ情報社会において小説の可能性を探究する試みとして捉えたい。主人公のBill Grayはメディアによって産出される情報の洪水から自らを意図的に引き離し、隠遁生活の中で作品の完成を目指す。資本主義経済が拡散する消費への呼びかけ、イデオロギーに侵された政治的メッセージ、映像の支配する大衆文化から隔絶した自立した主体が、Billの反逆的、高踏的芸術の根幹をなす。しかし読者が目にするのは、誇り高き孤立の中で、際限のない修正と加筆からなる創作行為の果てに、言語に対する制御を失い、さらに彼の死守する美的領域も情報の論理により侵犯され、小説完成を断念するBillの姿である。氾濫する情報から自らを引き離し物語を書く行為は、情報社会への一つの挑戦であるが、Billによる言わば外側からの挑戦は失敗に終る。DeLilloはBillが行う美的完成のための努力に敬意を払いながらも、自らは別の道を模索する。

DeLilloの作品と情報との関係については、既に批評家達によって論じられている。Mark Osteenは彼のMao II 論で、メディア文化における見世物としての作者(spectacular authorship)について論じ、小説家を消費可能なイメージに変える文化との小説家による対話的関係の構築の重要性を指摘する。John Johnston はポストモダニスト小説を、様々な媒体から発せられる言語と映像が形成する情報の集合体(information assemblage)として捉え、その中にDeLilloの作品群を位置付けている。それらの代表的批評家による見解に示されているように、DeLilloは情報社会からの隔絶という手段は取らない。むしろ作品の中に批判的に異なったジャンルの情報とその伝達形式を取り込んでゆく。本発表で情報社会における小説の可能性について論じる際、まず初めに物語(narrative)の問題を突破口としたい(DeLilloはMaria Nadottiとのインタヴューの中で、暗く悲劇的な報道とは新たな物語であると述べている)。情報の物語性についての考察に加え、主人公Billが文化形成の原動力であると考えていた小説が、情報文化といかに関わってゆくのか論じる。さらに情報ネットワークにおける主体の非肉体化と肉体化の問題を検討し、主体の変化とそれに伴う小説の形態の変化、さらに巨大なネットワークに捉えられた文化的他者との関わりを考察したい。


宮ア まりあ 早稲田大学


Paul Auster(1947-)のThe Locked Room (1986)は、ある男が何の前触れもなく家庭と過去の自分を捨て去るという設定であることから、Nathaniel Hawthorneの “Wakefield”(1835)との共通点をしばしば指摘される。しかし二つのテクストにおける明らかな違いは、この男と語り手との関係である。“Wakefield” では語り手と男とのあいだに一定の距離があるが、The Locked Room においては語り手と男が不可分であり、むしろこの二人の関係を読み解くことで、Austerの作品群における登場人物たちの自己の分裂が前景化される。

語り手「私」とFanshaweは、これまでも多くの批評家が指摘してきたように互いの分身であると考えられるが、それと同時にFanshaweを行為者であるとすれば、語り手は観察者であり、記録者であり、その行為を意味づける者でもある。Aliki VarvogliはThe Locked Room に関して論じながら、Fanshaweをあたかも探偵のごとく追っていた語り手が次第にFanshaweの伝記作家へと変容することを指摘している。Austerの特に初期の小説は、しばしば語り手あるいは主人公が探偵としての役割を担わされ、他者に関する何らかの報告を文書によって行わざるをえないことになるが、やがて以降のAuster作品でその報告書はかたちを変え、伝記となり、あるいは研究書となる。

このように、一人の男がもう一人の男の後を追い記録するという設定はAuster作品において繰り返し現れる。Ghosts(1986)のBlueはBlackの後を追い報告書を作成する。The Locked Room の語り手はFanshaweを捜し求め伝記を書く。Leviathan (1992)の語り手AaronはSachsに関する真相を追跡し本にするためにまとめ上げる。The Book of Illusions (2002)では、語り手David Zimmerが喜劇役者Hector Mannについて調べ上げ、研究書を執筆する。こういった二人の登場人物の関係をAusterは執拗に描き続けるのだが、常に語り手あるいは主人公は追う側の者として設定されており、また、ほとんどすべての場合において、死や破滅へと向かう行為者を、記録者は生の側にとどまり描き出すという設定になっている。これは、分裂した自己の一方が、他方を記録することで葬り去る手続きなのではないか。しかし語り手とAusterとが共犯関係にあるとすれば、Austerは分身を常に葬り去り続けなければならないということになる。このような分裂は、さらに遡れば、The Invention of Solitude (1982)第二部 “The Book of Memory” で語り手が自らを「私」と呼ぶことができず、他者「A」とすることではじめて語り得たということに端を発するのではないか。

本発表では、The Locked Room を中心に、Austerのテクストにおける二人の男の関係と、探偵、伝記作家、批評家としての語り手の役割を考察しつつ、最終的にはThe Invention of Solitude のうちにも見出すことのできる自己の分裂がAuster作品で如何に描かれているのかについて探ってみたい。


都甲 幸治 早稲田大学


本報告では Underworld (1997) における Don DeLillo の試みを扱う。それは冷戦下の世界で無視され言葉を与えられなかったもの、例えば核のゴミ、マイノリティの人々、暗黒街など、彼の言う “underworld” に属する人やモノに光をあて、単純な善と悪の二元論というレトリックに貫かれてきた公の歴史を書き換えることである。それは単に上と下という階層関係、あるいは中心と周縁を転倒させるということではない。高度に商品化された資本主義や、それと連携する軍産複合体によって編まれた社会システムからは切り離せない形で、まさにその中心に、システムに対抗する “underworld” を見出すことである。商品の巨大な集積をゴミの山と見て取り、兵器の集積を核廃棄物のモニュメントとして受け取る視線を獲得すること。冷戦のナラティヴ、あるいは多国籍企業による利潤最大化のナラティヴによって不可視とされた身体性を歴史に取り戻すのが DeLillo のもくろみである。しかも Steffen Hantke が言うように、DeLillo は歴史の身体と卑近な個人の身体というレベルの異なる諸身体をテキスト内でつないでいく。

実際、1936年、Bronx にイタリア系移民の子として生まれた DeLillo の歩み自体がこの Underworld という作品の主題に呼応していると言えるだろう。なにしろ言葉を獲得することにより彼はエスニックな移民の世界から外に出ることに成功したのだから。本作品にも彼の自伝的な要素がふんだんに盛り込まれている。主人公のニックとマットという兄弟はともに Bronx 出身であり、冷戦下の世界でニックは核の技術者、マットは世界中を飛び回る核をも処理するゴミ業者になる。

軍産複合体にゴミといえば、 Thomas Pynchon の The Crying of Lot 49 (1966) における w.a.s.t.e. がたやすく連想されるだろう。DeLillo はこの Pynchon 的な主題を実際の冷戦下アメリカに適応し、現実とフィクションを混ぜ合わせる。そして Pynchon では高速道路のガード下やカリフォルニアの山奥にいた “underworld” の住人たちを社会の中心へ持ってくる。かくして社会の徹底した清潔化、無菌化を目指したCIA 長官フーヴァーは、自らの身体から排出される汚物を盗まれ晒される。冷戦を担った核爆撃機 B-52 は退役後アリゾナの砂漠を埋め尽くし、クララ・サックスによりペインティングが施され巨大な風景画となる。あるいは殺されたストリート・チルドレンの姿がニューヨークのミニット・メイドのビルボードに現れるという噂が流れ、大量の人が集う。清潔はそのまま不潔となり、商品はそのままゴミとなる。反対にゴミは簒奪され組み替えられ再解釈されることで、言葉を与えられるのである。DeLillo にとってそれこそが芸術の、あるいは文学の役割ということになるのだろう。