1. 第2室(2号館1階 12番教室)

第2室(2号館1階 12番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
平野 温美

1.戦争のベンサム主義者――Melville の Billy Budd, Sailor における Vere 艦長の utilitarianism

  安田  努 : 明治大学(非)

2.Adventures of Huckleberry Finn における男と女――JimとMiss Watsonの危ういpower balance

  山本 祐子 : 神戸女子大学(非)

時実 早苗

3.さまざまな分身たち――Henry Jamesの理想郷小説考

  水野 尚之 : 京都大学

4.〈リアル〉なリスト――“Gatsby”を語るNickの欲望

  緒方けいこ : 東京都立大学(院)



安田 努 明治大学(非)


本発表では、Herman Melville の遺作である Billy Budd, Sailor (1924)の Vere 艦長とベンサム主義との関連について考察する。ベンサム主義は、一般的には、功利主義の名称で広く知られている。この哲学は、イギリスの哲学者・法学者であった Jeremy Bentham(1748-1832)によって提唱され、「最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the great number)」の実現をスローガンとして掲げる。すなわち、個人の欲望を肯定し、自己利益優先という現実の人間の普遍的傾向を利用することによって社会全体の幸福を実現しようとする哲学である。したがって、人々の幸福(利益)を増大させる政策は善であり、不幸(不利益)をもたらす政策は悪ということになる。ベンサム主義は、 Billy Budd の舞台の設定年代である18世紀末の産業革命下のイギリスで生まれた新しい哲学であり、伝統的な道徳観と真っ向から対立することから、Thomas Carlyleらによって厳しく批判されながらも、初期資本主義の社会規範の形成に決定的な影響を与えた。

ベンサム主義への Melvilleの批判的な態度は、Moby-Dick (1851)、 Pierre (1852) や晩年の詩のなかに一貫して見受けられる。さらに、興味深いことに、Melvilleはヴィアの登場に先立つ前半部で「戦争の功利主義者(martial utilitarians)」「戦争のベンサム主義者(Benthamites of War)」という独特の表現を用いている。彼らは、戦争においても合理的な功利性を追求し、Vereとは対照的な存在である Nelson 提督を批判する人たちである。このベンサム主義へのさりげない言及は、のちに登場する Vereと結び付けようとするMelvilleの意図を感じさせる。実際、Vere とベンサム主義の間には、いくつかの共通点がある。まず、Vere の価値基準が「幸福」にあること。次に、「厳格な軍律家」と表現されるように、彼が徹底した法実証主義者であること。そして、特に問題としたい点は、「規範」や「秩序」を強調しながらも、 Vere個人に利己的な「野心(ambition)」があったこと。物語の後半で、Vereは Billy の絞首刑判決という政治決着をつけるが、その際の彼の手法は極めてベンサム主義的である。本発表では、Vereの性格と言動に注目し、彼が18世紀末のイギリスと19世紀のアメリカの資本主義社会の負の部分を象徴するベンサム主義者として描かれていることを探っていきたい。


山本 祐子 神戸女子大学(非)


Adventures of Huckleberry Finn はアメリカを代表する国民的小説であり、自由を追い求める少年の物語とされてきたことから、男性側の視点に立った男性中心の解釈だけが論じられてきた。Huck Finn に登場する女性達は軽視され、女性側の観点が取り上げられることは稀であった。また Huck Finn では男女間の問題に触れられる個所はほとんどなく、性的要素に欠けているとまで言われてきた。しかしながら本文に散在する幾つものevidenceを拠り合わせJimとMiss Watsonの関係をgenderの視点から読みなおすと、彼らの力関係が奴隷と主人から、単なる男と女へと転じかねない危うい状況にあったことが浮き彫りとなってくるのだ。

確かにJimの人生はMiss Watsonと深く関わっていたが、彼らの間に何があったかについてはむしろ隠されている。例えばJimはMiss Watson の奴隷として登場するが、彼がどういう経緯でMiss Watsonのもとへ売られたのかは分かっていない。またMiss WatsonはなぜJimにつらく当たったのか、そしてJimはなぜ命の危険を犯してまでMiss Watsonのもとを逃げ出したのか、詳しい経緯は一切語られていない。しかもMiss WatsonがどうしてJimを自由にすると遺言状に残したのかは詳しく述べられていないものの、結局はそのおかげでJimは解放されることとなる。JimとMiss Watsonのこうした不可解な間柄には、genderの問題が深刻に関わっていた。

白人男性と黒人女性の性的関係については公然の秘密として受け入れられ、Pudd’nhead Wilson のように作品の題材にもなっている。しかし男奴隷と女主人の関係については、社会不安を引き起こしかねない危うい問題ゆえに、Mark Twainもあからさまに描き出すことを避けている。しかしながらJimとMiss Watson のごとき男奴隷と女主人の関係こそは南北戦争当時の代表的な主従関係であり、奴隷制崩壊をまじかに控え混乱する南部社会を象徴する関係でもあった。それゆえ本発表ではJimとMiss Watsonの関係をgenderの視点から再構築することで、これまで隠されてきた南部社会の実像を浮き彫りにできると考える。その中で、これまで少年の物語とされてきた Huck Finn におけるgenderの重要性を明らかにできるはずだ。


水野 尚之 京都大学


1895年に劇 Guy Domville によって挫折を味わって以来、Henry Jamesは怪しげな超自然現象を扱った小説群とは別に、いわば理想郷小説とでも名づけるべき小説群を書いている。本発表は、これらの小説に通底する要素の分析を目的とする。

Jamesの Notebooks の記述(1892年5月)を読めば、“The Middle Years”(1895)と“The Great Good Place”(1900)は同じ着想から枝分かれしたものであることが分かる。“The Middle Years”の主人公である初老の作家Dencombeは、病気からの回復期にあるが、深い疲労感にとらわれている。そのような作家の前に、彼の作品“The Middle Years”に深く感動した若き医師Hughが現れる。遺産の相続の機会を犠牲にしてまで、尊敬する初老の作家に仕えようとする医師――「若さ」が強調されている――は、老いや死を意識した作家Dencombeが望んだ存在、すなわち彼自身の若き分身と解されよう。DencombeはHughと話しているうちに失神する。そして意識を取り戻した彼に、Hughは“You’ll be all right again.”と告げる。次の作品“The Great Good Place”においてこの“all right”が繰り返される事実は、偶然ではない。

“The Great Good Place”は、老作家の分身が若い作家の姿を取って、前作より深く主人公に関わる小説と解釈できる。また“The Middle Years”では若い女性が初老の作家に悪意ある言葉を浴びせるが、“The Great Good Place”では女性はもはや登場しない。主人公の老作家George Daneのまわりには、忠実な召使と、自分を深く尊敬してくれる若い作家だけがいる。またDaneが夢の中で訪れる“The Great Good Place”には、理想的な友人Brotherがいる。DaneがBrotherと理想郷を満喫している間に、現実の世界では若い作家がDaneに成り代わって、山と積まれたDaneの仕事を片付けてくれる。さまざまな分身たちが作り出す心地よい雰囲気の中で、Daneは水のイメージに満ちた世界――水による浄化が繰り返しなされている――を浮遊しているのである。

“The Great Good Place”における静謐で理想的な世界は、その直前の1898年にJamesがロンドンを離れてRyeのLamb Houseに移り住んだことが影響していると思われる。しかしその後二十年ぶりに生まれ故郷ニューヨークを再訪し、その変貌の様を目の当たりにしたJamesが書いた、いわば逆理想郷小説ともいうべき“The Jolly Corner”(1909)では、もはや主人公を救済してくれるような分身は現れない。現れるのは、顔を両手で隠した――その指は二本欠けている――分身である。この分身との対面の場面こそ、少年期からJamesを繰り返し襲った悪夢が具現化された例と考えられる。


緒方 けいこ 東京都立大学(院)


F. Scott Fitzgeraldの The Great Gatsby は、中西部出身のNick Carrawayが、1922年の夏、ニューヨーク郊外で出会ったJay Gatsbyと名乗る男の死を回想する、という物語構造をしている。一人称の語り手Nickを設定したことが Gatsby の成功の要因であるというのは、長いあいだ批評史的常識であったのだが、近年このNickの語りが内包する、数多くの看過しがたい矛盾が指摘され、Nick の語り手としての「正直さ」のみならず、物語の内容やクロノロジーを制御することのできないFitzgeraldの作家的力量すらも問い返されている。

1991年に出版されたCambridge版の Gatsby においてはMatthew J. Bruccoliによって、クロノロジーにかかわる部分の整理が「付録」で行われているのだが、物語上の矛盾を鋭く指摘する批評家たちは、ずば抜けて数の多い「物語上の齟齬や隘路」が、従来この作品に対して行われてきた評価や議論の可能性を限定すると指摘し、さらにはそれらを看過してきた批評家をも批判する。

代表的なのはThomas A. Pendletonである。Pendletonは、1993年に出版された I’m Sorry about the Clock において、Gatsby のクロノロジーにかかわる矛盾を詳細に検討したうえで、Nickは殺人事件の真相を暴露する物語をなぜ書いたのか、という疑問を呈している。筆者はPendletonの疑義に一定の同意を表明するものだが、本発表では、Gatsby における矛盾を物語の欠陥としてではなく、Gatsbyとの出会いと死を物語るNick、すなわちGatsbyの生と死に意味を充填するNickの語りにおける「症候」としてとらえ返し、Nickがなぜこの物語を語ったのか、という問いへの応答を試みる。物語の冒頭、NickはGatsbyのことを「ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」としながらも「最後になってみればGatsbyにはなんの問題もなかったのだ」と語る。Gatsbyが、いわば人まちがいのすえに殺され、その真相を秘匿したまま中西部に戻ってきたNickが、「正直もの」を自認しつつ、Gatsbyの死の真相に関する多くのことがらを「語らない」あるいは「語りそこない」ながらもGatsbyの死を物語るのはなぜか。その語りにどのような欲望が潜んでいるのか。これらの問題点を、Gatsbyを語るNickの欲望のみならず、Gatsbyの死を神話化してきた批評的欲望を視野にいれながら考察したい。