1. イントロダクション

イントロダクション

慶應義塾大学 巽 孝之



日本人は無思想だといわれる一方、アメリカ人には反思想とも呼べる伝統、すなわちリチャード・ホフスタッターのいう反知性主義が存在する。知的なるものや理論的なるものに対するアンチテーゼは、いまも根強い。この流れは、古くは17世紀植民地時代にアン・ハッチンソンの代表する神秘主義的な異端として根付き、18世紀啓蒙主義時代を経ると、ジョナサン・エドワーズの大覚醒運動における福音伝道熱や、ベンジャミン・フランクリンがメディアを活用した法螺話趣味、ラルフ・ウォルドー・エマソンらの唱道する超越主義思想において、むしろ主流へと躍り出た。反知性主義の系譜は以後も発展し、たとえば知識人批判を絶妙に刷り込むハーマン・メルヴィルやマーク・トウェインをはじめ、20世紀においても失われた世代の代表格アーネスト・ヘミングウェイからポストモダン文学の巨匠カート・ヴォネガットまで、反知性主義によってアメリカ文学史の本質を読み直すことすら可能に見える。

この系譜がアメリカのポピュリズムと連携し、1980年代以降より21世紀の今日まで、レーガンからブッシュ父子を支える旧左翼・現ネオコン系保守派支持層を生み出した。その結果、80年代半ばまでは封じ込められていた反知性主義の伝統は反ポストモダニズムの風潮と手に手を結ぶ。理論物理学者アラン・ソーカルによるポストモダニズム批判「知の欺瞞」キャンペーンはまだ記憶に新しい。本来ポストモダニズムは西欧形而上学的伝統、とりわけ啓蒙主義以後の理性の時代に代表される合理主義を徹底批判する意味合いを帯びていたはずだが、現代アメリカの文脈では、いつしかそんなポストモダニズム自体が知性の権化ならぬ知性の暴力のように捉えられ、フランス的なるものに反発せざるをえない政治的無意識と相まって、ほかならぬ批判対象と化してしまったのは皮肉である。反フランス主義とも多かれ少なかれ連動せざるをえない反知性主義は、反知識人的伝統とも呼び直すことができるだろう。

そうした反知性主義を今日最も巧妙に体現したのは、それこそ知識人批判の代表とも言うべきドキュメンタリー映像作家マイケル・ムーアであった。もちろんブッシュ自身が反知性主義的ポピュリズムの代名詞だが、ここでブッシュ批判者ムーアもまた、根本においては同質の反知性主義的身振りによって、現役大統領へのほぼ同族嫌悪的、転じては同毒療法的なメディア操作を行ってみせた。最も反知識人的なムーアがかえって知識人的に見えていたのは、もうひとつの皮肉である。だが、反知識人の伝統が最も典型的なアメリカ的知識人の伝統でないと、誰が、どのような権利において断言できるだろうか。亀井俊介氏が一貫して「知の技法よりも情の技法が重要だ」と発言されてきたことも、まさに以上の文脈において意味をもつように思われる。

このように、文学的にも文化的にもさまざまな問いかけを可能にする反知性主義の伝統を、神秘主義からフェミニズム、ポピュリズム、ひいては文学史の読み直しそのものにおよぶ幅広いパースペクティヴより再検討したいと考える。