1. 1.普遍国家と生の間で― “Red Leaves”にみる「アメリカ」のダイナミクス

1.普遍国家と生の間で― “Red Leaves”にみる「アメリカ」のダイナミクス

井出 達郎 北海道大学(院)


1930年に発表されたWilliam Faulknerの短編小説“Red Leaves”は、インディアンと黒人というふたつの共同体を軸とした、時間的・空間的に限定された枠組みの中で展開している物語でありながら、20世紀の「アメリカ」というより広い枠組みから読むことができる。作品は一方で、「アメリカ」を「世界」と同一視するという普遍化された国家意識が、包括的なアイデンティティによる時空間の画一化を目指し、黒人やインディアンという「非アメリカ的なる」共同体を飲み込んでいく普遍国家の運動を示す。しかしそれと同時に、その運動からどこまでも離脱し、あらゆるアイデンティティから切り離されていく生の運動というものを描きだしていく。本発表では、この相反するふたつの運動の間において浮き彫りにされる「アメリカ」を論じたい。

“Red Leaves”にみる「アメリカ」という枠組みは、19世紀から20世紀にかけての国家意識の変容をその背景として考えることができる。19世紀末までの国家意識とは、「アメリカ的なるもの」から「非アメリカ的なるもの」を排除するという自己閉鎖的で孤立主義的なものだった。しかし、国際的な世界に介入し、海外地域の領有者となり、債務国から債権国となっていくアメリカは、自らを「世界の先導者」「人類全体の先導者」と位置づけ直していく。その結果、20世紀の国家意識は、「非アメリカ的なるもの」を「アメリカ的なるもの」に同一化させなければならないという使命感を帯びた、普遍国家としての意識へと変容する。

“Red Leaves”に描かれるインディアンや黒人とは、この普遍化された国家意識によって飲み込まれていく「非アメリカ的なるもの」にほかならない。「白人と同じようにしなければならない」という意識の下、彼らは自らの共同体固有の空間や時間から切り離されていく。白人の文化圏から持ってきた赤い靴を履き続けることだけに執着するインディアンの首長、自らをとらえている共同体の「外」へ出るという考えが欠落している逃亡奴隷、その姿から浮き彫りになるのは、彼らの自我、記憶、帰属意識に働きかけ、それをただひとつの包括的なアイデンティティへとつくり変えていく普遍国家の運動である。

しかし作品は、そのような普遍国家の意識からどこまでも離脱しようとしていく運動も同時に描きだしていく。赤い靴を脱いだときに首長が上げる「アー・アー・アー」という言葉にならない呻き、「もう死んでいる」という自らの声を打ち消すようにして湧き上がる「まだ死にたくない」という逃亡奴隷のもうひとつの声、そこにあるのは、普遍国家の運動に飲み込まれていく自我、記憶、帰属意識とは別の次元で作動し、あらゆるアイデンティティから切り離されていく生そのものの運動である。

この相反するふたつの運動は、「そのどちらが真のアメリカであるか」といった単純な二項対立の問いに回収することができないような形で「アメリカ」を捉えているだろう。そこに見出されるものは、「白人」「インディアン」「黒人」といった個々の共同体やアイデンティティのせめぎ合いを越えたところにある「アメリカ」のダイナミクスである。